朝の茶碗と静かな電話
久々に早起きしてしまった理由
冷たい空気に包まれた朝、僕は珍しく目覚ましが鳴る前に起きてしまった。前夜の酒が残っていたわけでもなく、夢見が悪かったわけでもない。ただなんとなく、そんな気がしたのだ。そんなときに限って、電話が鳴る。嫌な予感は得てして当たるものだ。
サトウさんの無言の出勤
出勤してきたサトウさんは、僕の顔を一瞥してから、机に書類の山を無言で置いた。その目は「無駄話をする気はありません」と語っていた。朝の電話の件を話しかけようとしたが、先手を打つようにコーヒーを差し出された。やれやれ、、、これは大事になる予感しかしない。
失踪宣告という言葉
役所の書類に刻まれた死
電話の主は町役場の戸籍係だった。とある失踪宣告の手続きに不備があるかもしれないとのことだった。見れば確かに不自然だ。死亡日が妙に早い。通常よりも1年以上前倒しで命日が記載されていた。なぜか。誰の得になる?
サトウさんの冷静すぎる分析
「これは多分、保険金ですね」サトウさんは淡々と言い放った。保険金詐欺?いや、それにしては記録が雑すぎる。犯人が素人なのか、あるいはそれを逆手に取った誰かの策略か。僕の脳内で、古い探偵漫画の構図が蘇る。ホームズよりはむしろ怪盗キッド寄りだ。
命日を調べる依頼
戸籍の波間に沈む一人の名前
依頼主は「弟の死亡を確かめたい」という初老の男性だった。兄である自分が役所に確認しようとしても、すでに“死亡済み”で話が通っているとのこと。身内の死に顔すら見られないこの状況に、彼の顔には苛立ちと悲しみが交錯していた。
封筒に残された不自然な印影
古い書類の束の中に、一枚だけ異様なものがあった。使用済みの切手が貼られたままの返信封筒。その消印が命日より新しかった。つまり、死んだはずの人間が、その後に郵便を受け取っていたのだ。これは誤記では済まされない。
やれやれ嘘が多すぎる
死亡届の謎と共謀の匂い
提出された死亡届には、医師の署名ではなく、地域の民生委員の証明印があった。しかも、その委員はすでに退職しており、現在は所在不明。これは書類操作か? いや、それだけじゃない。嘘の命日、嘘の証明、そして嘘の遺族。
山奥の一軒家にて
かすかな手がかりをたどって、僕とサトウさんは山中の古びた家を訪れた。そこには老人が一人、テレビもつけずに座っていた。「誰にも迷惑はかけていないと思っていたんだ」と、その男は呟いた。だが、法はそれを許さない。
元野球部の勘が働く
あのときのキャッチャーの視線
男の語りを聞きながら、僕の中で一つの記憶が蘇る。高校時代、サインを無視してカーブを投げたとき、キャッチャーが僕に向けたあの視線。すべてを見通したような、だが言わぬままの確信。今のサトウさんの目も、まさにそれだった。
帳簿に挟まれた古い新聞
男の家で見つけた古新聞の束。その一枚に「◯◯銀行職員死亡」の記事があった。命日とされていた日付の、3ヶ月後の日付だった。つまり、記事の男と失踪した男が同一人物なら、宣告された“命日”は完全な偽造だということになる。
宣告は誰のためにあったのか
保険金と再婚の陰
真相は、兄の失踪を利用し、義理の妹が別の男性と再婚するために作り上げた偽りの死だった。彼が生きていては再婚も保険金受取も成立しない。共謀は複数の関係者に及んでいた。そして当の男は「そうしてくれと言った」とまで口にした。
息子の知らなかった父親像
現地で聞き込みをしていたサトウさんが戻ってきて、ぽつりとこう言った。「息子さん、父親が死んだと信じて育ったみたいです」。その事実は、事件の全貌よりも胸を刺した。人が消えるとき、記録以上に人の心が壊れていく。
真実は登記簿の行間に
誰が何のために消したのか
登記簿を見れば、所有権の移転日が命日と一致していないことが判明した。細かいズレ。だが、それが決定的だった。誰かが帳尻を合わせるために命日をずらした。その証拠が、不動産の記録に残っていたのだ。紙は、嘘を忘れない。
司法書士が追い詰めた名前
最終的に、偽造に関与していたのは元同僚の司法書士だった。かつての同業者として僕も顔見知りだっただけに、やりきれない思いが残る。「守ってやりたかっただけだ」と語る姿は、もはや正義でも悪でもなかった。ただ、哀しかった。
もう一つの命日
嘘をついた男の涙
役所に出頭した彼は、自分の命日が二度あることに苦笑しながら涙を流していた。「一度目は愛する人のため、二度目は自分のためだ」と。だが、どちらも真実ではなかった。彼は死ななかったし、生きてもいなかった。ただ、逃げていただけだった。
そしてサトウさんの一言
「人って、いなくなりたいとき、本当に消えられるんですね」。書類をファイルに収めながら、サトウさんがぽつりと呟いた。その声は冷たくもあり、どこか憐れみも含んでいた。僕は返す言葉がなかった。
事件の終わりといつもの事務所
静かに片づけられるファイル
戻ってきた事務所では、事件などなかったかのように日常が待っていた。ファイルは棚に戻され、パソコンの画面には次の登記申請が表示されていた。書類の世界には、情も涙も残らない。ただ、処理すべき事実が並ぶだけ。
次のコーヒーは苦かった
いつものコーヒーが、今日はなぜか妙に苦かった。いや、味は変わっていない。ただ、胸の奥に残った余韻が、そう感じさせるだけだろう。「次の依頼、来てますよ」。サトウさんの声に僕はうなずいた。やれやれ、、、次はもう少し軽い話であってほしい。
エピローグ不在者は今
再び届いた手紙の差出人
数週間後、事務所に一通の手紙が届いた。差出人は、かの男だった。現在は遠方の町工場で働いているらしい。そこにはこう記されていた。「あの日、司法書士さんに出会えてよかった。俺は、ようやく生きることにした」。
登記簿に残された最後の空白
僕はその手紙をそっとファイルに挟み、登記簿の写しとともに封を閉じた。そこには、命日とされていた日付がまだそのままになっていた。訂正の申請はしていない。今の彼が、ようやく本当の命日を迎えた気がしたからだ。