登記簿のすき間に咲いた花
事務所の扉が開いたのは、梅雨の名残が漂う曇り空の午前だった。
目元にかすかな疲れを宿した女性が、手に書類を抱えて立っていた。
「これ、登記じゃなくて…恋の相談かもしれません」と、その人は言った。
午前九時の奇妙な依頼人
彼女の名はミユキ。年齢は三十前後、声はどこか切実だった。
「この“恋愛契約書”を、なんとか公的な効力あるものにできませんか?」
まるでルパン三世の女怪盗が、次のターゲットの予告状でも持ってきたかのようだった。
その契約書に恋の文字
差し出された書面は、手書きで綴られた“愛情の無償供与契約”とでも言うべき代物だった。
「一切の対価を求めず、感情の提供を誓います」などと、妙に法的な言葉が並んでいた。
だが、決定的な問題があった。「これ、登記の対象にならんのよ……」と、俺は言葉を濁した。
非課税扱いにできる愛情とは
契約書の中には、「本契約による愛情表現は全て非課税とする」と記されていた。
俺はしばし言葉を失ったが、サトウさんが後ろから冷ややかに囁いた。
「どうせ、贈与税の回避目的ですね。たまにいるんですよ、感情を盾にする輩」
ラブレターは課税文書か
俺は過去に、遺言に「愛してる」とだけ書かれた奇妙な案件を扱ったことがある。
あのときも、受け取った側がその言葉にどんな法的意味があるか悩んでいたっけ。
「でもこれ、恋文じゃなくて、契約なんですよ」とミユキは繰り返した。
サトウさんの冷たい視線
「その“契約”は、法的には空文化するでしょうね」
サトウさんは書面をスキャンしながら、ノートPCのキーボードを打ち続けた。
「せめて証拠能力を持たせたいなら、相続や贈与との関連性を整理するべきです」
元野球部の俺の失投
俺はつい、「つまり…恋には税金がかからない、ってことでOK?」と口走ってしまった。
するとサトウさんのキーボードの音が止まり、ゆっくりこちらを見た。
「昭和脳で投げたその球、今の社会じゃボークですよ」とバッサリやられた。
消えた申告書と謎の印鑑
奇妙なことに、翌日その“恋愛契約書”が姿を消した。
俺の机の上に置いていたはずの封筒が、跡形もなく消えていたのだ。
代わりに、朱肉の染みだけがぽつんと残されていた。
謎の相続人の正体
数日後、ミユキの祖父が亡くなり、その遺産相続の調査が始まった。
驚くべきことに、その祖父の自筆証書遺言に「ミユキへ、愛と一緒に不動産を」とあった。
問題は、その不動産に登記がされていなかったことだった。
登記簿の余白に刻まれた秘密
現地調査の末、空き家となった一軒家の押入れから古びた契約書が見つかった。
それはミユキの祖父が、自分自身宛に書いた“愛情の確認書”だった。
登記はされていなかったが、そこには実印と共に「無償贈与」の文字が残っていた。
課税対象にならない感情
税務署は、「これは贈与ではない」と判断した。
なぜなら、そこには財産の移転が明確でなかったからだ。
愛情は記録できても、評価額にはできないらしい。
やれやれ、、、恋は難しい
今回の件で思い知った。
登記と契約、そして恋愛は、決して同じ書式では扱えない。
やれやれ、、、俺に一番縁のない話だったよ。
恋と税と契約のトライアングル
恋は非課税かもしれないが、心に残る契約はいつも何かを課してくる。
俺のような司法書士にとっては、愛なんて未登記の謎文書だ。
それでも、少しだけ胸の奥があったかくなったのは事実だった。
サインとハンコと愛の証明
ミユキは、祖父の家に花を手向けながら、静かに笑っていた。
「祖父は、愛を残してくれただけで十分です」
サインもハンコもいらない、そんな証明もあるんだなと思った。
真実は誰のためにあるのか
契約や登記は、誰かの安心のためにあるものだ。
でも、人の想いを記録できる帳簿なんて、どこにも存在しない。
今回の事件は、俺にとってもひとつの勉強になった。
司法書士の最後の一手
俺は、見つかった古契約書を元に“法定外の備忘契約”として簡易記録を残すことにした。
無効かもしれない、けれど彼女の気持ちに応える方法はそれしかなかった。
たまには、正義よりも優しさで書類を閉じるのも悪くない。
恋は非課税でお願いします
最後にサトウさんがポツリと言った。
「でも、そう言って税金逃れしようとしたら、私容赦しませんからね」
俺は笑いながら答えた。「大丈夫だよ、相手がいないから」
事件の終わりと書き換えられた契約
依頼人が去ったあとの事務所には、静寂とコーヒーの香りだけが残っていた。
パソコンの画面には、未送信のメールがひとつ。
件名は「愛の登記、可能ですか?」――冗談でも本気でも、きっと俺には無理だろう。
冷めたコーヒーと少し温かい結末
カップを手に取り、俺は小さく息をついた。
この町の片隅にも、まだ恋と謎が潜んでいるらしい。
そして、それを記録するのが俺の役目かもしれない。