朝の郵便受けと不穏な封筒
朝、事務所の扉を開けると、いつものように無造作に突っ込まれた郵便物の中に、少し重みのある封筒があった。差出人は記載されておらず、宛名も手書きだった。こういうのは大抵、トラブルのにおいがする。
僕はそれを片手に湯を沸かしながら、サトウさんの出勤を待った。きっと彼女のほうが、こういう封筒には慣れている。僕が無駄に開けて中身をぐちゃぐちゃにするより、よっぽどいい判断が出るだろう。
差出人のない封書
封筒の中から出てきたのは、委任状の写しと住民票、それに一枚の地図だった。委任状には不動産登記の移転依頼と書かれているが、依頼人の現住所欄が空白になっていた。
「住民票がついてるのに住所が書いてないなんて、珍しいですね」とサトウさんが淡々と言った。書類を一瞥しただけで、おかしさに気づくあたりは、さすがだと思う。やれやれ、、、僕はまた、面倒な事件を引いたらしい。
奇妙な依頼人と転出証明
翌日、封筒に同封されていた連絡先へ電話をかけてみた。中年男性の声が出たが、会話の端々に警戒心がにじむ。依頼内容について話すと「手紙に書いた通りです。詳細はそちらで調べてください」とだけ言って切られた。
こういう自己完結型の依頼人は厄介だ。だが、それ以上に気になるのは、住民票に記載された転出予定日が、現時点より未来になっていたことだった。
住所不明の委任状
登記の委任状は形式的には問題ないが、住所欄が空白では法務局は受け取ってくれない。しかも、印鑑証明も添付されていなかった。これは登記を通すつもりがあるのかどうかも怪しい。
サトウさんがぽつりとつぶやいた。「これは…記録を残したくないってことじゃないですか?」そうかもしれない。だが、なぜ司法書士を通す必要があったのか、その理由はまだ見えなかった。
番地の抜けた住民票
本籍地も現住所も番地の数字が曖昧に記されていた。町名と丁目までは書かれているが、番地の欄が空白。そんなことがありえるのか。確認のため、市役所に連絡を入れたが、職員は戸惑ったような声を出した。
「その方の記録はありますが、なぜか番地が抹消されていまして…」と困惑気味だった。普通、そんな操作はできないはずだ。これは確かに、何かが隠されている。
区画整理が語らない過去
その住所は数年前、区画整理の対象地域になっていた。住民の移動が多く、登記簿の修正申請も相次いだ。だが、その依頼人の名前は過去のどの名寄帳にも見当たらない。存在しない人間が存在した住所、それが僕の手元にある。
まるで名探偵コナンのように、現場にいない犯人がすべてを操っているような感覚だった。だが僕は眼鏡も蝶ネクタイもしていないし、何より頭の回転が追いついていない。
法務局からの不穏な通知
調査の最中、法務局から一通の通知が届いた。「地番が重複しています」とのことだった。地番が? そんなことがあるのか。登記簿を調べると、同じ番地に二人の所有者が記載されていた。
一方は平成元年に登記されたもの、もう一方は先月のものだった。古いほうの所有者が依頼人の名前と一致していた。だが、平成元年当時、彼はまだ未成年のはずだ。
登記簿と住民票の食い違い
この時点で、僕の脳内ではシャーロックホームズとルパン三世が対決していた。どちらも正しい推理をしているようで、でも真相には辿り着けない。
結局のところ、鍵は「存在を証明しないための記録操作」だったのだ。住民票と登記簿の両方を少しずつ改ざんすることで、本来あるべき土地の履歴が消されていた。
古家に残された転居届
番地の謎を追いかけ、僕とサトウさんは市内のはずれにある古家を訪れた。郵便受けには誰も見ないままの転居届が詰め込まれていた。中には「この家はもう私のものではありません」と走り書きされたメモが残っていた。
空き家バンクにも登録されていない物件だった。だが、固定資産税は払い続けられている。誰かが意図的に、ここを「存在しない家」として管理していたのだ。
サザエさんの世界とは違う現実
この家に家族の気配はなかった。サザエさんのように「ただいま」「おかえり」と笑いあう団欒の姿など、ここにはなかった。ただの空虚な空間に、居ない誰かの過去だけが残されていた。
僕はその場で何も語れなかった。ただ、調査報告書に淡々と事実だけを記載していった。司法書士として、それしかできることがなかった。
消された住民記録
やがて市役所から、ある名前の削除記録が見つかったとの連絡が入った。依頼人の名前と一致していたが、削除理由は「重複登録の是正」となっていた。そんな理由で名前が消えることなどあるのだろうか。
これが「誰かになりすました誰か」なのか、「誰かを守るための削除」だったのかは、もう誰にも分からない。だが、依頼はそこで完了とされた。
一枚の固定資産税通知書
最後に届いたのは、市役所からの固定資産税通知書だった。宛名は存在しない住所に向けられていたが、消印は依頼人が言った「未来の日付」だった。誰かがタイムスタンプを偽造したのだろうか。
「過去をなかったことにするためには、未来を操作するのが一番簡単なんですよ」と、サトウさんがぼそりとつぶやいた。その声には、どこか皮肉と哀しみが混ざっていた。
最後の手がかりは名寄帳
僕は名寄帳をもう一度見直した。そして、かすれた文字で記載された所有者の異動記録を見つけた。ほんのわずかな筆跡の違い。それがこの物語の終わりのサインだった。
結局のところ、依頼人はただ「記録に残らないこと」を望んでいたのだ。存在の証明を消すために、司法書士を巻き込んだ。それが全てだった。
事件の真相と遺された家
その後、あの古家は解体された。新たな土地の所有者は不動産会社で、再開発が始まるという。依頼人の姿を見た者は、もう誰もいない。
だが僕の心には、まだあの空白の番地が残っていた。たしかに「何か」がそこにあった。それを覚えている限り、あの依頼は終わらないのかもしれない。
後日談と事務所の午後
「この書類、また地番が変わってますよ」とサトウさんが書類を差し出す。僕はそれを受け取り、コーヒーを一口すする。「また空白が出てくるかもな」とぼやくと、彼女は「それもシンドウさんの仕事でしょ」と返した。
やれやれ、、、今日もまた、存在しない誰かの物語に関わることになるらしい。コーヒーの苦味が、妙に心地よく感じた。