午前九時の来訪者
控えめすぎる女性の微笑
曇りがちな朝だった。事務所のドアが小さな音を立てて開いたのは、まだコーヒーもぬるい午前九時。
入ってきたのは、黒髪をまとめた地味な女性。年齢は三十代前半か。
「すみません、契約書の件で相談がありまして」
声まで静かだった。
契約書に残された違和感
余白に滲む赤いインク
差し出されたのは、不動産売買契約書。だが、署名欄の下に小さな赤い滲みがある。
印鑑ではない。インクペンでもなさそうだ。しかも何か文字らしきものが読める気がした。
「これは……」
私は思わず眉をひそめた。
サトウさんの観察眼
条項に隠された感情のズレ
サトウさんが無言で書類を手に取り、条項を一つひとつ読んでいく。
「第三条の表現がやけに曖昧ですね。相手がそれに気づいてたら、揉めて当然です」
そう言って彼女は冷たく鼻を鳴らした。
私は苦笑しながら机に頬杖をついた。
あの文字は誰のものか
筆跡鑑定という名の恋占い
赤インクで書かれていたのは「すき」というたった一文字だった。
契約書にそんなものを書くやつがいるか?と思ったが、筆跡が誰かに似ていた。
いや、見覚えがある。これは彼女のものではないか。
私は依頼人の表情を横目でうかがった。
依頼人の過去に迫る
隠された婚約と破綻の真相
「以前、この物件を共同で買おうとしていた相手がいました」
依頼人がぽつりと語りだす。どうやら破談になったらしい。
だがその人間が、書類にこんな痕跡を残すとは。
なにか未練か、あるいは別の意図か——
恋の証明は証拠になるか
誓約書の第三項が暴いた動機
問題の条文には「条件付きで解除可能」と曖昧な表現があった。
そこに相手は恋文のように「すき」と書き加えたのだ。
これは情状酌量を誘う策略か、それともただの情熱か。
判断が揺れる。
うっかりの中に閃きあり
やれやれ、、、ヒントはあそこにあった
ふと、契約書の裏にコーヒー染みがあるのを見つけた。
それが文字を浮かび上がらせていたのだ。
「やれやれ、、、コナン君なら三分で気づいただろうな」
私は頭を掻いて立ち上がった。
書類が語る裏切りの構図
条文に潜むもう一つの顔
調査の結果、相手方の弁護士が条項の穴を突いて契約破棄を画策していたことがわかった。
赤インクは依頼人の元婚約者が残したもので、彼女は騙されたことに気づき、抵抗の証として書き込んだのだ。
「だからといって、書類に落書きするのはどうかと……」
私は渋く呟いた。
塩対応と優しさのコンビネーション
サトウさんの冷静さが事件をほどく
「契約の意思が曖昧だったなら、全体の合意が無効になる可能性もありますね」
サトウさんの冷徹な分析が、今回も核心を突いていた。
私は内心、彼女がいてくれて助かっていると何度も思った。
声に出したことはないけど。
真実は契約の行間に
恋と罪が交差した瞬間
依頼人は涙をこらえて頭を下げた。
恋が壊れた場所に、契約書という冷たい紙だけが残っていた。
でも、その中にも熱い何かが確かにあったのだ。
文字は記録だけでなく、感情も残す——それを私は知った。
後日談と二人の距離
署名欄の横に残されたもの
事件後、彼女は再び事務所にやってきた。今度は少しだけ明るい表情で。
「新しい契約書、今度は私がちゃんと書きました」
そこにはきちんとした署名と、そして——赤インクで小さなハートが添えられていた。
私はうっかりペンを落とし、サトウさんに鼻で笑われた。