取下書の裏に沈む影

取下書の裏に沈む影

出だしはいつもの雨音だった

事務所に届いた一枚の取下書

雨音が屋根を叩く音がやけにリズミカルで、眠気を誘う午後だった。 そんな中、郵便受けに届いた一通の封筒が、のちの事件の幕を開ける。 封筒の中には、形式だけ整った取下書。だが、それはあまりに整いすぎていた。

書式のズレに滲む違和感

印刷された書式なのに、微妙にずれている行間。手慣れた司法書士なら気にも留めないような細部が、逆に私の神経を刺激した。 押印も妙に淡い。実印というには迫力がない。 これは、誰かが“形だけ”整えようとした痕跡だと、直感で感じた。

サトウさんは見逃さない

一言だけ足りない文言の意味

「これ、文末の“以上”が抜けてますね」とサトウさん。 まるで探偵事務所の助手のような冷静な指摘に、私は思わず苦笑した。 小さなミスは人間味とも取れるが、この書面からはそういう温度が一切感じられない。

封筒に残された消印の不自然さ

消印の日時が、取下書の日付より未来になっていた。 つまり、未来から来た郵便。いや、そんなサザエさん時空のような話ではなく、誰かが意図的に日付を操作した可能性がある。 「やれやれ、、、また面倒なパズルが始まったな」と、私は椅子にもたれた。

僕の足はいつも通り重い

登記簿をめくるたびに心が沈む

市役所の登記課で、古い謄本をめくっているときほど、自分が“物語の脇役”に思える瞬間はない。 一枚一枚の紙に、人の人生の縮図が詰まっている。 だが今回の物件に関しては、過去も現在も、なぜか空白が多すぎた。

やれやれ、、、また厄介な予感だ

古い権利書に見え隠れする筆跡、何度も交わされた委任状の痕跡。 嫌な予感が、確信に変わるには時間はかからなかった。 誰かが、この登記を意図的に「なかったこと」にしようとしている。

申請をやめたのは誰の意志か

依頼人はすでにこの世にいなかった

取下書に記された依頼人の名で戸籍を追った。 結果は、死亡。しかも、取下書の作成日より前に。 つまり、死人が書類を出したことになる。サスペンスではおなじみの展開だが、現実だと冷や汗ものだ。

代筆か否かを分ける小さな癖字

筆跡鑑定まではいかずとも、私は癖字に敏感だ。 「書」の字の払いが異常に長いのが依頼人の癖だった。 だが、今回の取下書にはそれがない。誰かが、似せて書いたのだ。

電話の声は別人だった

「本人が書いた」と言い張る男

念のため、事前相談の際に使われた番号に電話をかけた。 出たのは中年男性。声には妙な圧があった。 「本人が書いたもんですよ、間違いない」と繰り返すばかりで、逆に怪しさ満点だった。

登記識別情報を巡る二人の謎

調べると、識別情報の通知が再発行されていた形跡があった。 しかも、それが別人の住所に送られている。 なぜそんなことが許されたのか、役所の闇に足を踏み込んでしまった気がした。

サトウさんの推理が走り出す

「たぶん、家族には秘密があったんですよ」

サトウさんがボソリと呟いた。 「こういうケース、意外と多いんですよ。相続人の一部が知らないまま進めるやつ」 彼女の口調は淡々としているが、その奥には鋭い分析があった。

謄本に浮かび上がる旧姓の記録

よく見ると、所有権移転の前に、一度名義が“旧姓”に戻っていた。 離婚か、生前贈与か。いずれにせよ、家族間の何かがあったのは間違いない。 この家は、誰かの秘密を抱えたまま、登記されるのを拒んだのだ。

司法書士は捜査官じゃない

でも放っておけない事情がある

「法務局に出すだけが、俺の仕事じゃないんだよ」と自分に言い訳しながら、私は調査を続けた。 だが、本当は知っている。 これは職責ではなく、ただの人情だと。

昔の自分を見てしまった

過去に、似たような取下書を書いた依頼人がいた。 あのとき、見抜けなかった後悔が、今も胸に引っかかっている。 今度こそ、逃げずに踏み込まなければと、勝手に思っていた。

遺されたノートの中の真実

書かれた理由はたった一行

古道具屋で見つけた小さなノート。そこに記されていたのは、 「この家はあの子にあげてください。それだけが望みです」 たった一行。でも、それがすべてだった。

「これが最後のお願いです」

その言葉に、どれほどの重みが込められていたか。 本人は申請という形を選べなかっただけ。 それでも、その想いは確かに紙に残っていた。

答えはすでに提出されていた

消印の日時が物語る逆転劇

後日、消印の日付が本局の不備でずれていたことが判明した。 つまり、取下書は“死後”の提出ではなく、生前に出された正当な書類だったのだ。 疑いは消え、残ったのは想いだけだった。

登記が拒まれた理由

提出された登記申請には、一部不足書類があった。 法的には却下されても仕方ないが、それでも彼は「やるだけやった」のだ。 それを知っただけで、私の中のもやもやが少しだけ晴れた。

サトウさんの冷たい正論

「私情で動かないでください」

サトウさんに叱られた。 「泣ける話でも、手続きは手続きですから」と。 まったくもって正論だ。だが、心に沁みる。

僕はただ、ぐうの音も出なかった

一言も返せなかった。 机に突っ伏したまま、天井を見上げていた。 それでも、どこか少し救われた気もしていた。

登録免許税より重たい想い

法律の隙間に隠された温もり

法の世界は冷たい。それが当然だと思ってきた。 だが、今回は違った。そこに“情”があった。 取下書の裏に沈んでいたのは、そういうものだった。

登記はされなかったが伝わったもの

結局、登記は完了しなかった。 だが、その家には新しい花が活けられ、写真立てが置かれていた。 “あの子”が、何かを受け取ったのだと、私は確信している。

事件が終わり日常が戻る

コーヒーの湯気と事務所の静けさ

午後三時、ようやく淹れたインスタントコーヒーの湯気が、妙に落ち着く。 サトウさんはすでに次の案件のチェックに取り掛かっていた。 私は今日もまた、片隅で「やれやれ、、、」と呟くだけだった。

「書類は正直だな」

嘘をつくのは、いつも人間のほうだ。 書類は書かれた通りにしか物語らない。 だからこそ、私たち司法書士の目が必要なのだと、あらためて思った。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓