朝のコーヒーと奇妙な依頼
事務所のドアが軋む音とともに、年配の男性が現れた。深く皺の刻まれた顔に、どこか切迫したような影が差している。手には年季の入った謄本のコピー。
「この登記、何か変じゃないかと思ってね」と、その男性は言った。朝のコーヒーに口をつけようとしていた私は、渋々カップを置いた。
やれやれ、、、今日も静かな一日とはいかなさそうだ。
登記簿の写しを持って現れた老人
差し出されたのは昭和の頃の謄本と、最近のもの。見比べると、確かに何かが違う。登記名義人は同じはずなのに、筆跡が微妙に揺れている。いや、これは、、、。
「誰かが書き換えた可能性がありますね」と私は言った。老人は唇を噛みしめ、天井を見上げるようにしてうなずいた。
そのとき、サトウさんが背後から静かに資料を差し出してきた。
サトウさんの無表情な違和感
「これ、気づきました?」とサトウさんは淡々と言った。彼女の指先が指し示すのは、所有者欄の字体。昭和と令和、間に時の流れがあっても、同一人物にしては変化が大きすぎる。
「おかしいですね。こんな癖、急には変わらないと思います」とサトウさん。彼女の声には、うっすらと興味すら感じられる。
私は思わず鼻の頭を掻きながら、謄本を机に並べ直した。
重なり合う住所と謎の筆跡
表記された住所には微妙な違いがあった。一丁目五番地と五番一号。まるで写植のような整いすぎた文字が、かえって不自然に映る。
「これ、どこかで見たような、、、」私の脳裏に浮かんだのは、かつて扱った別の登記簿。確か、あのときも変な修正跡が残っていた。
私は資料棚を漁り始めた。背後ではサトウさんが、淡々と何かを検索していた。
字が違う それだけのはずだった
気づいてしまえば単純な話だった。字体の傾き、点の位置、ハネのクセ。違いは素人でも分かるレベルだが、問題はそれを見過ごす制度の方にあった。
「これは登記官が気づいて然るべきです」と私は呟いた。だが、現場は人手不足とルーチン作業に追われ、見落としも無理はない。
とはいえ、この“違い”には意図がある。それが問題だった。
旧謄本の余白に刻まれた数字
古い謄本の端に、鉛筆で書かれた「11 07」という数字があった。昭和のものにしては新しい気もするが、これが日付だとしたら、ちょうどある事件と重なる。
「平成十一年七月の登記移転、、、まさか」私の心臓がどくりと波打った。
何かが仕組まれている。そう思った私は、翌日、現地へと向かうことにした。
元野球部司法書士の現地調査
駅からバスを乗り継ぎ、さらに徒歩二十分。丘の上に立つその物件は、すでに空き家になっていた。玄関前には草が生い茂り、ポストにはチラシが山積みだ。
私は手袋をはめ、門扉を開けて足を踏み入れる。ふと、あのときの感覚が蘇った。高校時代、試合前のグラウンドの土の匂いだ。
やれやれ、、、今はもう球を投げる体力もないくせに。
ボールが当たった塀の先に
昔、ミットを外したときのように、不意に何かが胸に引っかかった。塀の裏、敷地の角に積まれた古いブロック。そこに何かが埋まっていた。
私はスコップで土を掘り返す。中から出てきたのは一冊の古いノート。そこには詳細なメモと、署名練習の跡がびっしりと並んでいた。
その筆跡は、明らかに今の登記簿にあるものと一致していた。
笑わないサトウが笑った日
帰所後、私はサトウさんにノートを差し出した。彼女は眉ひとつ動かさず、それを一読し、「やっぱり」と短く呟いた。
「これ、登記を偽造するための練習ですね。たぶん、相続放棄させたくない誰かがやった」
その後、彼女は珍しく目を細めた。ほんのわずか、微笑んだように見えた。
それは証拠より確かな一言だった
「この手の偽造、初めてじゃありませんよね?」と彼女は言った。その口調には確信があった。
私はうなずきながら、相続登記の申出書類を机の上に置いた。
「ええ、でも今回は“書類”がすべてを語ってくれたようです」
謄本に隠された遺志
実は故人には内縁の妻がいた。正妻とは死別し、相続人は遠縁の甥一人。だが故人は、遺言の代わりに、手書きの登記書類でその女性に家を残そうとしたらしい。
だが、それは法的に認められず、甥が強引に相続を進めた。裏で誰かが筆跡を模して、登記簿の一部を書き換えた。
それを正すには、証拠が必要だった。そして、今回の証拠は見つかった。
所有者欄が語る優しすぎる嘘
故人は、自分の死後も家族が争わないよう、あえて曖昧な書類を残したのかもしれない。だが、その曖昧さが争いを生んだ。
「やっぱり、人が書くものにはその人の心が出るんですね」サトウさんがそう言った。
私は静かにうなずき、謄本を閉じた。
サインひとつが導いた結末
その後、依頼人の老人の協力もあり、家庭裁判所で調停が成立。登記も訂正され、家は本当に守るべき人のもとへ戻った。
書類が整うたびに、私は胸の内でひとつずつ区切りをつけていった。
仕事とはいえ、人の想いに触れることは時に重い。
死後に仕掛けられた登記のトリック
故人が生前に仕組んだ“書類のトリック”は、きっと一種の願いだったのだろう。正式な手続きではなく、想いを託す手段として。
それを見抜けたのは、私ではない。あのとき微笑んだ、サトウさんの目だった。
司法書士は法の手続き人である以上に、人の気配を読む仕事でもあるのかもしれない。
サトウの最後の笑顔と小さな拍手
「シンドウさん、やっと終わりましたね」と彼女は言った。
私は深く息をついて「やれやれ、、、」と肩を落とす。
その横でサトウさんが、誰にも聞こえないように、そっと手を叩いた気がした。