朝一番の来訪者
「予約してないんですけど、大丈夫でしょうか?」と控えめな声が玄関越しに聞こえた。時計は午前九時を少し回ったところ。サトウさんが目配せしてきたので、うなずいて応接室へ通した。
黒髪をまとめた落ち着いた雰囲気の女性。年齢は四十代半ばといったところか。手には一枚の登記事項証明書を持っている。
「これ、ちょっと変じゃないですか?」と彼女は口を開いた。表情は穏やかだったが、どこか探るような目つきだった。
名乗らなかった女性
名前を尋ねると、「鈴木です」とだけ言った。下の名前も聞こうとしたが、それには答えなかった。苗字だけの名乗りは、どこか防御的で、何かを隠しているようだった。
登記内容を見ると、確かに不自然な点があった。権利者の氏名と、本人が示した免許証の名前が一致しないのだ。免許証の名前は「佐藤」だった。
旧姓と現姓の間で何かがあったのだろう。それを解く鍵が、この登記書類に隠れている気がした。
婚姻関係を巡る違和感
「婚姻はしていないんです」と鈴木はぽつりと漏らした。だが、過去の登記履歴には「配偶者と共有」になっている記録が残っていた。
まるで婚姻をしていないようでいて、していたような登記の痕跡。形式だけの婚姻、あるいは別の意図か。
登記簿に現れる情報は事実の一部に過ぎない。そこに「なぜ」がくっついてくると、一気にミステリになるのが司法書士の仕事である。
登記の不一致と旧姓の謎
登記簿に記載された「佐藤真紀子」という名前。ところが、持参された免許証の名義は「鈴木真紀子」。改姓の経緯がまったく示されていない。
「これは旧姓で登記されたままだったということでしょうか?」サトウさんが尋ねた。いつもながら頭の回転が速い。
「いえ、これは……わざと変えてないんです」と鈴木、いや、佐藤は口をつぐんだ。
登記簿と身分証の微妙なズレ
ふつう、登記の名義変更は婚姻や改姓の後にする。だが、今回のケースではそれがなされていない。しかも旧姓のままで不動産を取得している。
しかもその取得が、ちょうどある男性の死亡直後であることがわかった。誰かの相続で名義を移した形だ。
司法書士として、これは「うっかり」では済まされない事案だった。
旧姓のまま提出された書類
過去の登記を洗うと、不動産を取得した際の申請者は「佐藤真紀子」。そしてその添付書類の婚姻関係証明は欠けていた。
形式だけでは見抜けないが、これは意図的に「婚姻を証明しない」形に整えられた登記だった。
やれやれ、、、これは面倒なにおいがする。
司法書士事務所の昼下がり
書類をひととおり確認し終え、コーヒーを入れ直す。サトウさんはすでに補正用の書類チェックに入っていた。
「これ、戸籍附票を取り寄せましょう。たぶん、あの人、改姓してない理由が出てきます」と静かに言った。
こういうときの彼女は、まるで怪盗キッドが予告状を仕込んでいたかのように的確である。
サトウさんの冷静な指摘
「司法書士って、こういう人間関係の裏側に手を突っ込む職業なんですね」とサトウさんが呟く。
「うちは探偵じゃないぞ」と返しつつ、書類に目を戻す。だが彼女の言うとおり、これは探偵漫画のような仕事だ。
名前ひとつで人生は変わる。逆に、名前を変えないことで守り抜いたものもあるのかもしれない。
戸籍附票の意外な効力
取り寄せた戸籍附票には、驚くべき事実があった。佐藤真紀子は、三年前まである男性と同居していた記録があった。
男性の名前は「鈴木達郎」。すでに死亡しており、その直後に彼の不動産が佐藤名義で移転していた。
婚姻届は出ていなかった。だが、その死を利用して登記を行った可能性があった。
消えた配偶者の記録
役所に問い合わせても、婚姻届は出ていないという。遺言もない。だが不動産は佐藤の名義に移っている。
これは明らかに不正の可能性がある。けれど、法律的なギリギリのラインで演出されていた。
本当は婚姻関係にあった。けれど、それを証明できないよう細工されていたのだ。
除籍謄本が語る過去
除籍謄本に記された情報から、達郎には実の妻がかつていたことがわかった。佐藤はその女性ではなかった。
つまり、佐藤は内縁の妻であり、遺産を相続する法的な権利はなかったのだ。
だが、それを逆手に取って「旧姓のまま」不動産を登記したことで、あたかも別人のようにふるまっていた。
再婚していない理由
真紀子が結婚しなかったのは、達郎の元妻とのトラブルを避けるためだった。そして、死後にすべてを手に入れる計画だった。
やることはまるでルパン三世。だが、目的は財宝ではなく、ひとつの「家」だった。
登記簿は黙っていたが、戸籍と附票が全てを語った。
不正登記と相続の絡み
このままでは名義は彼女のままだ。だが、登記無効の訴訟を起こせばひっくり返る可能性もある。
ただ、彼女は罪に問われないかもしれない。なぜなら、形式的には「書類不備」で済むからだ。
だが、それを仕組んだ動機は、間違いなく「隠された結婚生活の痕跡」だった。
他人の名義で取得された不動産
「これ、私がもらってもいいですよね? あの人、何も言わずに死んだんです」
佐藤の言葉には、どこか恨みと執着が混ざっていた。彼女はずっと「家」が欲しかったのだ。
愛ではなく、承認でもなく、ただ自分の名前が刻まれた家。それが彼女の動機だった。
名前を変えなかった本当の理由
佐藤が旧姓のままだったのは、最初から最後まで、すべてを一人で完結させるためだった。
名前を変えれば戸籍が動く。家族が知る。関係者が現れる。それを避けたかった。
「だから旧姓のまま、不動産も名義も、全部やったんですね」とサトウさんがぽつりと言った。
対峙と告白の夜
「あなたの行為は限りなく黒に近いグレーです。でも、ここで相談したのは、罪の意識があったからでは?」
静かに問いかけると、佐藤はかすかにうなずいた。「家を守りたかっただけです。たとえ誰からも認められなくても」
やれやれ、、、人の心というのは、法律よりもずっと複雑だ。
真犯人の涙と決着
最終的に彼女は、司法書士会の指導のもとで名義修正を行った。だが、そこには自分の名前を残した。
形式だけの持分。登記簿の片隅に、彼女の「痕跡」だけが残ることとなった。
そして、もう誰も彼女のことを話す者はいなかった。
そして静かな事務所へ
サトウさんが「今夜はサザエさん再放送の日ですよ」と言って帰り支度を始める。
あの家のように、帰る場所があるのは幸せなことなのかもしれない。
「じゃ、俺はこれから登記の補正、、、やれやれ、、、」と独り言をつぶやき、コーヒーをすする。今日もまた、静かな夜が始まる。