紙の中の静かな殺意
午前九時の封筒
まだ暖房が効ききらない事務所に、配達員が封筒を置いていった。いつもと同じように見える茶封筒だったが、持つ手がわずかにチリチリとした。 封は雑に糊付けされており、送り主の名前もなかった。ただ、宛名だけが妙に丁寧な楷書体で「シンドウ司法書士事務所」と書かれていた。 「また変なの来たな……」とつぶやきながら机に置いた。
名前のない依頼人
封を開けると、登記申請書類が丁寧に揃って入っていた。 しかし驚いたことに、肝心の依頼人欄には名前も印鑑も記されていない。どこかコピーのような薄さすら感じた。 「申請書に名前がないって……こんな初歩的なミス、あるか?」と俺は眉をひそめた。
サトウさんの冷たい指摘
「これ、何か変ですね」とサトウさんが一言。手袋越しに書類をつまみあげて光に透かしてみせた。 「紙の裏に、うっすらと指紋……というより、何かの粉がついてます。紙やすりですか?それとも……」 塩対応な割に、こういうときの観察眼は鋭い。俺は少し背筋が寒くなった。
書類に仕掛けられた罠
俺は鼻を近づけてみたが、何の匂いも感じなかった。 しかし指先にわずかな痺れのようなものを感じた気がして、慌てて手を洗いに行った。 「シンドウ先生、それ、もしかして……接触毒の可能性、ありませんか?」サトウさんがごく冷静に言った。
地方紙の片隅の不審死
その日の午後、サトウさんが机にポンと新聞を置いた。「ここ、見てください」 地方紙の社会面の端っこに、小さな記事があった。「不動産会社元社員、不審死。遺体の手に黒い染み」 その名前を見て、俺は立ち上がった。「こいつ……この名前、十年前に俺が処理した相続の案件に出てきたやつだ」
法務局からの内々の電話
タイミングよく法務局の担当者から電話があった。「ちょっと気になって……変な申請書、届いてませんか?」 俺は「もしかして、依頼人の名前がないやつですか?」と返すと、向こうが息をのむ音が聞こえた。 「それです。それ、提出しない方がいい。実は……今朝、あの人が死にました」
元野球部の勘が騒ぐ
記憶が呼び起こされた。十年前、野球部の先輩から紹介されたある案件。不自然な持分移転。 あの時の印影と、今回の申請書の署名欄が、どこか似ていた。俺の中で何かがピンとつながった。 「もしかして……これは復讐か、もしくは口封じか」
サトウさんの推理が走る
「先生、筆跡鑑定とか出したらバレますよ。むしろ、“書類で殺す”手段を取った時点で犯人、もう分かってる気がします」 俺はうなった。「毒の書類で特定人物を狙うって、よほど関係があったってことだな」 サトウさんは新聞をめくり、ある広告を指差した。「この会社、倒産してます。怪しくないですか?」
やれやれ、、、結局動くのは俺か
俺は分厚い過去帳を引っ張り出し、十年前の案件を確認した。 相続登記、元配偶者への贈与、そして急な持分放棄。 「やれやれ、、、面倒ごとはいつも俺のところに転がってくる」
裁判所ではなく交番へ
「提出されたらまずかった」と言った法務局の言葉が引っかかっていた。 これは司法ではなく、むしろ刑事事件――だから裁判所ではなく交番が正解だ。 俺は封筒ごと持って最寄りの交番に足を運んだ。
真相は静かに書類の中に
警察で検査したところ、封筒の糊部分に微量の神経毒が含まれていた。 犯人は、かつて自分を裏切った元上司に復讐するため、司法書士事務所を経由させる計画を練っていた。 その上司が死亡したことで、書類の送付自体が意味を失ったが、俺のところにだけは残されたのだ。
シンドウ事務所に戻る静寂
「で、結局なんだったんですか?」とサトウさん。俺は「まあ、毒と未練と証拠不十分の三点セットってとこだ」と返す。 「私なら、そんな回りくどいことしませんけど」と言い放って、彼女は席に戻った。 やれやれ、、、やっぱり俺よりよっぽど冷静で怖いかもしれん。
結末とその後
封筒は警察に没収され、事件は一応の幕を閉じた。報道はなかった。 依頼人は消息不明のまま、毒の出処も不明。司法の手の届かないところに真相は沈んでしまった。 だが一つだけ確かなことがある。紙の中にも、人の殺意は封じ込められる。