朱の印に潜む影
書類の山と見知らぬ委任状
朝の事務所。デスクの上に積まれた申請書類の山の中に、見慣れない委任状が紛れ込んでいた。用件は「所有権移転登記」、委任者は高齢女性、受任者はその孫と名乗る男。だがどうにも、その男の筆跡と印影に違和感があった。
俺はコーヒーを啜りながら委任状を眺めたが、違和感の正体がつかめなかった。ただ、何かが噛み合っていないような…そんな引っかかりがあった。
「サトウさん、これってどこから届いた?」俺の問いかけに、サトウさんはカタカタとキーボードを叩きながら答えた。「昨日の午後、直接ポストに入れたって。差出人は不明」
サトウさんの鋭い一言
「この印影、コピーっぽいですよ」サトウさんが指摘した。よく見れば、微妙なにじみ具合がプリンタのインク特有のものに思えてきた。朱肉独特のムラがない。
俺はルーペを取り出して印面を覗き込んだ。うん、確かにこれは“押された”というより“貼られた”印だ。やれやれ、、、厄介な予感がしてきたぞ。
「ってことは、偽造の可能性が高いですね」サトウさんの声に冷たさはないが、情け容赦もない。そういうところは、まるで『キャッツアイ』の泪姉さんみたいだ。
押印の跡に違和感を感じて
俺は再び委任状を見つめた。印影の位置が、どうにも微妙にズレている。それも、下方向にだけ。通常なら押印時に自然にできるバランスではない。
「これ、もしかして貼った上から透明テープでも押さえてますね」とサトウさん。爪で軽くなぞると、わずかに段差を感じる。誰だ、こんな雑な偽装をしたのは。
朱肉の香りがしない印影は、まるで魂のない顔のように感じられた。あの顔を、どこかで見た気がする。いや、“あの顔”ではなく“あの貼り方”か…。
顔写真のない本人確認書類
さらに書類を精査していくと、添付されていた本人確認書類が「保険証のコピー」だった。しかも、名前の部分だけが極端に鮮明に印刷されている。
これはもう、確信的な加工だ。さすがに俺でも分かる。「お前、まるで劇場型犯行か何かの練習台にされてるぞ」と、誰にともなくつぶやいた。
保険証に顔がついてないのは本来当然だが、それを悪用するためにわざと選んでいるような節がある。これはコナンくんでも見抜くレベルだ。
元依頼者の奇妙な電話
その日の夕方、一本の電話が鳴った。受話器越しの声は震えていた。「私、登記のことで、何も知らないって言いましたよね?なのに、書類が通ってるって…」
名乗ったのは、委任者として記載されていた女性本人だった。彼女は「そんな印鑑、押した覚えはない」と繰り返すだけだった。
俺はその言葉に背筋が冷たくなった。やはりこの書類には、作為がある。高齢の女性を騙して、誰かが勝手に手続きを進めようとしているのだ。
判子の印影が語る真実
押印された印影をスキャンして拡大してみると、不自然なピクセルの揺らぎが見えた。特に「田」の画が異様にぼやけている。明らかに画像処理された痕跡。
実印とは思えない粗雑なコピーだった。それでも、誰かはこれを通そうとした。何のために?やはり、財産か、土地か。それとも—。
俺の頭に、昔の相談者の顔が浮かんだ。そうだ、以前にも似たような手口で相談に来た男がいた。あの時は未遂で終わったが…。
登記簿から消された名前
オンラインで登記簿を確認してみると、確かに名義はまだ移っていない。しかし、嘱託人の記録からは、数日前に申請が出された形跡があった。
提出先は、遠く離れた県外の法務局。不自然だ。わざわざそんな場所を選ぶ理由があるとすれば、地元で顔が割れているか、何かを隠すためか。
登記官の入力ミスかと思ったが、申請データは形式的には完璧に整っている。つまり、やはり計画的だ。やるな、まるでルパン三世のような回避スキルだ。
高齢女性の名義変更の謎
女性に連絡を取り、直接面談した。彼女は丁寧に対応してくれたが、やはり「孫」は数年前から音信不通だという。つまり、勝手に名前を使われている可能性が高い。
さらに深掘りしていくと、被相続人の名義をそのまま使い、仮登記を重ねて不正な移転を繰り返す「抜け道スキーム」の一部が見えてきた。
これはもう、ただの印影偽造の話ではない。権利そのものを丸ごと乗っ取ろうという、現代的な地面師事件だ。
あの日の野球部と同じ癖
決定打は、別件の過去書類から見つかった旧依頼者の委任状だった。そこには、あの印影と同じ「癖」があった。押すときに、いつも少し下に傾けていたのだ。
そう、それは俺が高校時代の野球部で見た、スコアブックを雑に書いていた後輩の癖と同じだった。まさか、あいつ…。
調べてみると、そいつはいま“司法書士補助者”を名乗りながら、いくつかの事務所を転々としているようだった。
そして見えてきた犯人の顔
写真のない書類、曖昧な印影、知らぬ間に出された申請、そして…過去に同じ癖のある委任状。ここまでくれば、もう十分だった。
俺は証拠をまとめ、警察と法務局に通報した。後日、その元補助者は私文書偽造と登記妨害の容疑で逮捕された。
サトウさんは静かにプリンタを止めて言った。「やっぱり、印影って嘘つかないんですね」。やれやれ、、、俺は彼女に敵わない。
サトウさんの冷静な推理
後日談として、俺が「全部気づいてた?」と聞くと、サトウさんはちょっとだけ口角を上げた。「最初から“紙質”が違いましたよ」
紙質…。そうか、あの委任状だけ少しだけざらついていた。それに気づいていたとは、まるで『名探偵コナン』の灰原みたいだ。
「カップ麺、食べます?」と差し出された湯気に包まれた器を受け取りながら、俺は静かにうなずいた。「ありがとう。助かったよ」
解決と報告とカップ麺
俺は事件の経過を被害者女性に丁寧に報告した。彼女は涙ながらに「ありがとう」と何度も言ってくれた。言われ慣れてないもので、むずがゆい。
その夜、俺とサトウさんは事務所でカップ麺をすすっていた。何気ない夜。だが、誰かの権利を守れたという安堵があった。
「やれやれ、、、たまには司法書士もヒーローってことで」俺は冗談っぽく言ったが、サトウさんはただ一言、「勘違いしないでください」と言っただけだった。