登記簿に現れた異変
一件の相続登記依頼
「父が亡くなりまして、相続登記をお願いしたいんです」。
書類の山に埋もれていた昼下がり、事務所のドアがきしんだ音と共に、少し緊張した声が耳に飛び込んできた。
顔を上げると、喪服姿の中年男性が立っていた。事情を尋ねると、相続人は彼一人。話は単純そうだった。
存在しない所有者の名前
だが提出された権利証を確認した瞬間、眉間にしわが寄った。
登記簿の表題部には、聞いたことのない人物の名前が所有者として記載されていたのだ。
「お父様はこの“山崎稔”という方では?」と尋ねると、「違います、父は“山崎義男”です」と即答された。
司法書士シンドウの違和感
見慣れた形式に潜む妙な記載
登記原因は昭和の古い相続登記となっているが、どうにも手続きの流れが不自然だった。
当時の登記官が書いた字も粗雑で、どこかしら急いで処理された形跡があった。
まるで、何かを隠すように記録された情報のように見えた。
サトウさんの冷静な一言
「それ、誰かの名前を借りて仮登記したんじゃないですか?」
昼食をつまんでいたサトウさんが、口の中のサンドイッチをモグモグさせながらつぶやいた。
冷静かつ的確。こっちはコーヒーをこぼしそうになったが、彼女は構わずPC画面に目を戻した。
被相続人の過去を追う
消えた住民票と不自然な戸籍
念のため、山崎稔なる人物の住民票を探してみた。
しかし現在どころか、過去の記録にもその人物の痕跡は見当たらなかった。
戸籍をたどっても該当者はなし。まるで幽霊が家を所有していたかのようだった。
かつてその家にいた別の人物
近隣の聞き込みで、古いご近所さんから「昔“稔ちゃん”って呼ばれてた人がいたよ」と聞いた。
よくよく話を聞くと、その人物こそ依頼人の父“義男”の幼名だったという。
つまり、稔というのは家族内でだけ通じる名前で、実際には公式には存在していなかったのだ。
裏取り調査と古い謄本
登記簿の旧筆からの違和感
古い登記簿を調べていくと、義男の父の代にあたる戦後間もない登記が見つかった。
その後、数年後に突如現れた“稔”名義の所有権移転がある。
しかも登記原因の欄には「遺贈」とだけ書かれていたが、遺言書の附属資料は一切見当たらない。
「名義貸し」と「仮登記」の過去
不動産に詳しい地元のベテラン司法書士に聞いてみると、「昔はよくあったよ、そういう“家の安全”のための裏技」と笑われた。
昭和の混乱期、強制差押えを逃れるため、家族間での“仮名義移転”が横行していたという。
稔の名義も、実際には義男本人が自己防衛のために使った仮のものだった可能性が高かった。
やれやれ、、、事態は想像以上
家を守るための名前
結局、依頼人の父・義男は、生活の危機を乗り切るために自分自身の仮名を使って登記をしたのだろう。
だがその後、それを正式な登記として訂正する機会もないまま亡くなった。
「やれやれ、、、また昭和の幽霊に踊らされたか」と、思わず独り言がこぼれた。
故人の優しさと法律の隙間
義男の行為は法律的にはグレーだが、家族を守るためだったことは明白だった。
書類だけでは見えてこない人間の想いが、この登記簿には確かに残されていた。
そう、まるで影のように。
司法書士としての判断
真実を語る書類と語らない家族
依頼人は、父の過去を知って戸惑っていたが、最終的には静かにうなずいた。
「父がそういう人だったのかもしれません」と言い、登記の修正に同意してくれた。
自分が継ぐ家に、父の影が残っていることを、どこか誇らしく感じているようだった。
職責と人情のはざまで
司法書士としての仕事は、ただ書類を処理するだけじゃない。
誰かの人生の痕跡に触れ、それを整えるという静かな責任がある。
今回のような“影”との対話こそ、やりがいでもあるのだろう。
サトウさんの結論
冷徹だけど正確な対応
「まあ、登記簿がちゃんとしてなきゃ、相続も何もできませんから」
事もなげに言いながら、修正申請の書類を手際よく用意するサトウさん。
その手つきは、まるで怪盗キッドが煙玉を投げるように鮮やかだった。
彼女なりの優しさ
ただ、ふと「家族ってややこしいですね」とつぶやいたその目は、少しだけ柔らかかった。
塩対応の奥にも、人を思う気持ちはちゃんとあるのだろう。
僕はそれを聞きながら、少しだけ疲れが和らいだ気がした。
影だけが残った登記簿
名義を残した人の思い
最後の申請書を提出し終えた夕方、静かな事務所に陽が差し込んでいた。
机の上には、もう“稔”の名前が消えた新しい登記簿が置かれていた。
だが、そこにあった“影”は、きっと僕たちの記憶には残り続けるだろう。
シンドウの最後のひと仕事
疲れた肩を回しながら、僕は机に体を預けた。
「やれやれ、、、今度は登記じゃなくて自分の食生活でも整えようかな」
誰に聞かせるでもなくそうつぶやいた。だが、サトウさんはちゃんと聞いていて、軽くため息をついたのだった。
結末と心に残るもの
書類は完了したが
業務としては完璧。だが今回の依頼は、いつもとどこか違っていた。
昭和の残り香と、人間のしたたかさ、そして優しさがそこにあった。
書類が語らないものを、僕は今回少しだけ知れた気がする。
司法書士の胸に残る影
それは登記簿の中に残された、わずかなズレから始まった。
でも、たかがズレ、されどズレ。司法書士はそこに意味を見出す職業だ。
そしてその“影”は、今日も僕の胸の奥にひっそりと、でも確かに残っている。