登記簿の余白に消えた男

登記簿の余白に消えた男

ある朝 彼は姿を消した

その日、事務所に来てみると、隣の司法書士の机が空っぽになっていた。机の上にはコーヒーの染みひとつ残っておらず、彼のいつもの手帳もなかった。ただ、棚の上の小さな観葉植物だけが、誰にも見送られることなく静かに揺れていた。

「やめるなら、一言くらい言っていけばいいのになあ」そう呟いた私の声だけが、妙に響いた。あまりにも急すぎた。まるで最初から、いなかったかのような消え方だった。

司法書士を辞めたとだけ伝えられた

法務局の窓口で聞かされたのは「本人の意思で廃業届が提出されました」とのことだった。提出日は数日前。彼の筆跡に間違いはないという。だが、あの律儀な男が、何の挨拶もなく姿を消すだろうか。

まるで怪盗キッドのように、煙玉でも焚いて去ったのではないかと思うほど、きれいな消え方だった。名刺一枚、置き土産もなかった。

机の上に残されたもの

事務所に戻って、彼の机をもう一度調べた。鍵のかかっていない引き出しの奥に、一枚のメモがあった。「登記は嘘をつかない。人が嘘をつくんだ」──それは、彼がよく口にしていた口癖だった。

しかし、その言葉が今は重くのしかかる。なぜ今さら、こんなことを書き残したのか。彼が何かを隠して去ったのだと、直感が囁いた。

整理されすぎた事務所

彼のデスク周りは、異常なほどに整理されていた。処分された書類はすべて溶解処理され、パソコンは初期化済み。まるで、誰かに探られることを予見していたかのようだった。

やれやれ、、、ドラマじゃあるまいし。だが現実は、小説より奇なりということなのかもしれない。

不自然な廃業届のコピー

司法書士会から取り寄せた彼の廃業届の写しには、確かに彼の署名と捺印があった。しかし、いつもの字と少し違っていた。書いた手が震えているような、そんなかすれた文字だった。

この捺印、まるで「他人が押したみたい」な違和感がある──それがサトウさんの第一声だった。

彼の過去をたどる

彼の担当していた過去の登記簿を読み返していくうちに、ある物件が目についた。名義変更が連続していた古いアパートだ。特段目立たない案件のように見えるが、登記原因が曖昧なまま変動していた。

彼が何かを隠そうとしていたのだとしたら、この物件に鍵がある──直感がそう告げていた。

破産事件とひとつの依頼

彼が最後に関わっていたのは、ある個人の破産手続だった。依頼人は若い女性で、戸籍の附票の住所に該当建物があった。だが登記簿には彼女の名前は一切登場していない。

これはただの代理人業務ではなかった。彼女は、彼の“身内”だったのではないか、という噂も耳にした。

法務局での不穏なやり取り

法務局の元職員に話を聞くと、彼がそのアパートの件で何度も補正に通っていたことがわかった。ある日、「こんな登記、通らないぞ」と怒鳴られていたとも。

その直後、彼は急に手続きを打ち切ったらしい。それ以降、彼の雰囲気が変わったと誰もが言う。

サトウさんの違和感

「普通、こんな書類残さないですよね」──そう言ってサトウさんが差し出したのは、ひとつの電子媒体だった。古いUSB。彼の机の裏から見つけたという。

中には、ある依頼人とのやり取りの録音データが残されていた。

日報に記された不可解な記述

「登記原因、調査中。本人確認未完。関係者の追跡必要」──まるで自分に向けたメモのように、彼は日報にそう書いていた。その書き方には、恐れと責任感、そして諦めが滲んでいた。

何を追っていたのか。なぜ、その情報を表に出さなかったのか。

登記簿に潜んだ矛盾

件のアパートの登記簿を再確認してみた。すると、建物の一部に未登記の部分があることがわかった。実は、当初の建築確認と現況が異なっていたのだ。

登記の世界では“未登記部分”は盲点になりやすい。そして、そこに隠された契約や、人物が存在する場合もある。

名義変更の時系列の破綻

奇妙なことに、名義変更されたはずの人物が、後日別件で「亡くなっていた」ことが判明した。つまり、死後に署名された登記申請書が存在していたことになる。

これは、れっきとした文書偽造。そして彼は、それに気づいていた可能性が高い。

誰が申請書を出したのか

最終的に申請したのは、別の司法書士名義だった。彼ではなかった。だが、その申請書の様式や使われているフォントは、どう見ても彼が普段使っていたソフトのものだった。

つまり、彼が下書きしたものを、誰かが勝手に使った可能性がある。

真実の供述

数日後、元依頼人の女性が警察に出頭した。供述によると、ある不動産業者が、彼を使って虚偽登記を企てていたらしい。だが、良心の呵責から彼は協力を拒否。

その直後、彼の身に何があったのか──彼女も知らないと涙ぐんでいた。

姿を消すための登記手続

実は、廃業届と同日に彼の住所地に移転登記がなされていた。所有権移転ではなく、賃貸借契約による居住者登録。それは、まるで身を隠すための処置のようだった。

彼は、司法書士という立場を捨てて、法の裏に消えた。

結末 そして現在

それから半年。彼の消息はいまだにつかめていない。だが、ときおり誰かの手で事務所に無言の封筒が届く。中には、補正済みの書類の写しや、匿名の警告文。

彼はまだどこかで、“登記”を通じて、何かを訴えているのかもしれない。

彼が司法書士を辞めた本当の理由

それは、正義感か、恐怖か、それとも贖罪だったのか。今となっては、彼にしかわからない。だが一つ確かなのは、彼は登記簿に、自分の生き様を刻み込んでいたということだ。

そして私は今も、彼が遺した「余白」を、少しずつ埋めている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓