朝の来客と消えた杭
その朝、まだコーヒーも口にしていないというのに、事務所のドアが乱暴に開け放たれた。足音と共に現れたのは、地元の農家の老夫婦。開口一番「杭がないんです!」と怒鳴るように言った。
話を聞けば、隣の土地との筆界にあったはずの境界杭が忽然と姿を消したという。畑の隅にあるはずの小さな金属棒。それがないだけで、ここまで騒ぐのかと思ったが、土地の人にとっては杭こそが自我のようなものなのかもしれない。
コーヒーは冷め、胃はキリキリと痛み出していた。
境界杭が消えたと騒ぐ老夫婦
「あの杭は昭和の頃からあるもんでね。あんたも覚えてるだろ」と言われたが、僕は昭和最後の甲子園で補欠だった頃から、土地の境界に興味なんてなかった。杭が抜かれたのか、自然に倒れたのか、それとも誰かが意図的に動かしたのか。
老夫婦の目は、犯人を僕に仕立てようとでもするかのように鋭かった。
「筆界調査をお願いしたい」と押し切られるように言われた時、ため息が漏れた。
筆界調査依頼という地味だが厄介な案件
登記上の筆界は決まっていても、現地の杭がなければ、それは「信じるしかない点」になる。信仰と測量は紙一重。サトウさんに「やります」と伝えた瞬間、デスクでのんびりしていた彼女が無言で立ち上がった。
その表情は冷ややかで、どこか「ああ、またか」とでも言いたげだった。
やれやれ、、、また面倒なことになった。
土地の記憶は人の記憶
筆界は紙の上では明確でも、現地では曖昧だ。過去の測量図を引っ張り出して、地元の古老たちに聞き込みをする。しかし、人の記憶など、せいぜいサザエさんの放送順くらい曖昧で頼りにならない。
「昔はここに柿の木があった」「いや、洗濯物を干してた」と口々に語られる「真実」は、まるで三流推理漫画のように錯綜していた。
筆界ではなく、記憶を調査しているような錯覚に陥る。
隣人同士の主張の食い違い
境界を挟んで対立するのは、老夫婦と新しく移住してきた若夫婦だった。前の持ち主から土地を買ったが、その際の境界確認書がどこかにいってしまったという。
「うちはここまでって聞いてます」と若夫婦が主張するラインは、わずかに東へ寄っていた。それは、杭があったはずの位置とは微妙に違っていた。
言葉は穏やかでも、視線は戦っていた。
古い地図と現況図との微妙なズレ
法務局に保存されていた公図と現地の状況を重ねると、確かにズレがある。だが、地図が正しいとは限らない。人間の作った地図は時に嘘をつく。測量者のミス、意図的な改ざん、あるいは誤解。
「このズレは、もしかして誰かが意図的に杭を移動させたのでは?」とサトウさんが言った。
冷静だが、どこかゾクッとする鋭さがあった。
やる気のない調査と塩対応
僕が手にしていた測量図を落としたのは、たぶん寝不足のせいだった。サトウさんの舌打ちが静かに響いた。もはや怒りでも呆れでもなく、ルーティンのようだった。
「ちゃんと持っててください、シンドウ先生」と言われ、思わず背筋が伸びる。
昔、野球部でノックを落として監督に怒られたあの感覚が蘇る。
サトウさんの冷たい視線が痛い
サトウさんは地元の登記記録から過去の分筆データを洗い出し、そこから旧地目図を導き出していた。事務所に戻るたびに机の上には新しい資料の山。
「これ、今夜までに読んでください」と無慈悲に言い残して帰る彼女の背中には、もはや慈悲のカケラもなかった。
それでも僕は読む。彼女に怒られないために。
聞き込みの罠
地元住民への聞き込みは進むにつれて、混沌としてきた。「あの杭は10年前に誰かが抜いた」「いや最初からなかった」など、証言はまるでルパン三世の変装のようにコロコロ変わる。
真実にたどり着くためには、余計な装飾を剥ぎ取らなければならない。
しかし、その作業が一番難しい。
近隣住民の証言は二転三転
ある住民がぽつりと呟いた。「昔、この辺を測量してた男がいたけど、最近見ないねぇ」。僕はその一言に違和感を覚えた。もしや、何かあったのでは?
調査士名簿からその男の名前を調べると、確かに数年前まで頻繁に筆界調査をしていた人物だった。
だが、連絡はつかなかった。
ひとつの疑念
境界を動かすことに得をするのは誰か。そう考えると、新しい若夫婦の方が怪しい。ほんの数十センチの違いでも、境界を動かせば駐車場一台分の面積が得られる。
杭が抜かれていたとすれば、それは偶然ではない。
「意図的な杭抜き」――それがサトウさんの見立てだった。
杭が抜かれた可能性
現場を再度確認し、金属探知機で杭の痕跡を探す。すると、土の中にわずかに埋まった金属反応があった。スコップで掘ると、明らかに抜かれた形跡のある錆びた杭が出てきた。
場所は、老夫婦が「元の場所」と主張した位置だった。
つまり、誰かが杭を抜いて移動させたのは事実だった。
土地家屋調査士の失踪
失踪した調査士の事務所は既に廃業していたが、その息子が市内で測量事務所を開いていた。事情を話すと、古いファイルを取り出してくれた。
そこには10年前の現地調査報告書があり、杭の設置写真と位置座標が明記されていた。
その座標は、老夫婦の言い分を支持するものだった。
封印された旧データの存在
その報告書には「境界確認済」の印があり、当時の所有者同士で立ち会った署名もあった。つまり、この事件は新しい所有者が過去を知らず、あるいは知っていて意図的に隠したことから始まっていた。
証拠は揃った。僕たちはそれを土地家屋調査士会へ提出した。
そして、杭は元の位置へと静かに戻された。
解決と後味の悪さ
事件は静かに終わった。誰も処罰されることもなく、境界は修正された。しかし、疑念や不信感といった「人の境界」は、そう簡単には修復できない。
老夫婦は「ありがとう」と言って帰ったが、その背中はどこか寂しげだった。
土地は戻ったが、心はどうだろうか。
シンドウのぼやきとサトウのため息
事務所に戻ると、サトウさんが椅子に座ったまま僕を見た。「次は山林の筆界です」
僕は空を仰いだ。「やれやれ、、、測量ってのは地面よりも人間の面倒を見る仕事だな」
サトウさんは一言だけ、「慣れてください」とだけ言って、パソコンに視線を戻した。