登記の相談は突然に
事務所に訪れた妙に晴れやかな依頼人
朝イチで届いた封筒を片付ける間もなく、玄関のチャイムが鳴った。サトウさんが受けた電話の相手らしい。
「婚約者と別れたんです。でも登記のことで相談があって」と、にこやかに微笑むその女性は、妙にすっきりとした顔をしていた。
恋の終わりにしては穏やかすぎる空気に、私はなんとも言えぬ違和感を覚えた。
婚約と所有権の境界線
私物か共有財産かを巡る言葉遊び
相談内容は、婚約期間中に購入したマンションについてだった。登記名義は元婚約者単独。しかし、頭金の一部は彼女が負担したという。
「口約束でしたけど、二人で住むって決めてたんです」と彼女は笑った。
法律的には他人である二人の約束は、登記簿には反映されない。だけど、それだけで済む話だろうか?
恋が終わったあとの義務
未登記の同棲とその後始末
彼の元を去るとき、彼女は一切を置いて出てきた。家具も、契約書も、思い出も。
残ったのは、ひとつの「委任状」だった。彼からのものらしいが、それが本物かどうかもわからない。
「これって、抹消登記できますか?」と、彼女は小首を傾げた。軽く言うには、あまりに重い書類だった。
登記簿に刻まれた名前
なぜ彼の名がそこにあるのか
調べてみると、登記簿には確かに彼の名前が単独で載っていた。所有権の保存登記は、新築時に済まされていた。
しかし気になったのはその付随情報。ある種の「債権者」の名義が見慣れた不動産業者の名になっている。
「この人、いま行方不明なんですって」と、彼女はさらりと言った。やれやれ、、、話が穏やかじゃなくなってきた。
サトウさんの冷静な推察
女の勘は記録より正確だ
「それ、虚偽登記の可能性ありますね」と、サトウさんが小声で囁いた。
どうやら委任状は偽造の可能性がある。内容が妙に簡素で、署名も筆跡が微妙に違っている。
私はまたしても、初動で受け取った情報を鵜呑みにしたことを反省した。やっぱり、この人はただの失恋者じゃない。
シンドウのひらめきと反省
やれやれ またひとつ見落としていた
調査を進めるうち、彼女が言及しなかった「ある登記変更申請」が目に留まった。それは彼女が出て行く直前に提出されたものだった。
私がその写しを確認した瞬間、ある種の確信が生まれた。これはただの感情的な別れではなく、意図された「処分」だったのだ。
「やれやれ、、、」思わず独りごちる。恋の終わりにしては、あまりに計算が立ちすぎている。
遺言書のような委任状
書類に宿る未練と執念
本物の委任状であったなら、それは元婚約者の遺志ともいえる。
しかし、内容があまりに彼女に有利すぎる。まるで、すべての罪をかぶる代わりに全財産を譲るような…。
「この人、もう戻ってこないと思いますよ」と彼女がつぶやいたとき、私はぞっとした。
愛と契約のあいだで
誰のための登記だったのか
登記は事実を示すが、感情の裏までは記録しない。
だが、虚偽の事実を正当化するために使われることもある。そこに悪意があるならば、法もまた利用される。
そして今回、その「利用者」は彼女だったのか、彼だったのか、それとも…。
サザエさん症候群と月曜日の真実
テレビをつけたままの部屋で
事件の鍵を握る元婚約者は、発見されたとき、自宅のリビングで倒れていたという。テレビはサザエさんのエンディングが流れていたらしい。
死亡時刻はちょうど日曜の夜。契約解除の委任状が投函されたのは、その前日の土曜日。
恋の終わりと彼の終わりが、週末の中で静かに交差していた。
登記の抹消と感情の清算
恋の終わりにできること
私は彼女に言った。「この委任状、無効の可能性が高いです。きちんと家庭裁判所の手続きを踏んでください」と。
彼女は少しも驚いた様子を見せなかった。ただ、淡々とうなずいて帰っていった。
その背中には、恋人ではなく「当事者」としての静かな覚悟がにじんでいた。
事件の核心とその余白
登記簿に記された最後の痕跡
結局のところ、彼女の目的が何だったのかはわからない。
ただ、登記簿には確かに彼の名前が残っている。そしてそれを消すのは、彼女ではなかった。
私にできたのは、法律の枠内でその余白を埋めずに残すことだけだった。
サトウさんの一言で締めくくる
淡々と、そして少しだけ優しく
「女の人って怖いですね」と私が漏らすと、サトウさんはちらりと私を見た。
「それ、今さらですか」と塩対応。しかしその声は、いつもよりほんの少しだけやわらかかった。
私は、なんとなく救われたような気がして、机の上の書類をそっと整えた。