はじめに静かな朝に
盆明けの朝、セミの鳴き声も力尽きたかのように聞こえなくなった。事務所の窓を開けると、むわっとした湿気が肌にまとわりつく。コーヒーをすすりながら、いつものように山のような書類を眺めていた。
その日、古びた喪服姿の女性が、予約もなく突然やってきた。名刺を差し出すこともなく、「名義変更の件で」と小さく言った。
平穏を装う依頼人
話を聞いていくうちに、どうも事情が噛み合わない。亡くなった夫の名義を変更したいというが、既に彼女名義になっているはずの土地だ。登記簿もそう示していた。
「とにかく、確認していただければ」と彼女は何度も繰り返した。声のトーンは終始変わらず、まるで何かを押し殺すようだった。
気づかれなかった違和感
確かに表面上は問題なさそうだ。ただ、登記原因欄に妙な修正が入っていた。「贈与」となっているが、その筆跡だけが他と異なる。サザエさんでいえば、波平が突然カツオの通知表に満点を書き足したような、そんな違和感だ。
登記官の訂正印もなく、不自然な訂正。となると、事件の香りがしてくる。
司法書士の直感と鈍感
「シンドウ先生、たまにはファイルの順番くらい整えてから話を聞いてください」サトウさんが背後から冷たく言い放つ。
やれやれ、、、今日も彼女の塩対応が胃に沁みる。とはいえ、彼女の言う通り、順を追って調べることにした。
書類の中に潜む謎
依頼人が持参した謄本の写しには、本来存在しないはずの文言が微かに見える。「この土地には思い出が詰まっています」。そんな私文書めいたメモ書きが、透かしのように浮かび上がっていた。
筆跡からして本人のものだ。だが、それを誰に向けて書いたのか、目的は見えてこない。
やれやれが口癖の男
「思い出に生きるのは、テレビドラマの世界だけだよな」自分に言い聞かせるようにつぶやくと、サトウさんが「それ、リアルではただの現実逃避ですよ」と容赦なく返す。
やれやれ、、、冴えない探偵役には荷が重いかもしれない。でも、これは登記ではなく、心の名義変更のようなものかもしれない。
サトウさんの冷たい観察力
無表情なサトウさんがふと、「あの人、何かを渡そうとして躊躇してましたよ」とぽつり。そう言われて初めて、依頼人の手元に握りしめられた封筒を思い出した。
それはたしかに、登記に必要な書類には見えなかった。
無駄話よりも証拠を
彼女が黙って立ち去ったあと、机の上に一通の手紙が残されていた。「この気持ちに気づいてくれなくてもいい、でも、消さないでください」とだけ書かれていた。
その文面に、事件性はない。でも強い意志を感じる。誰かに何かを伝えたくて、それが届かなかったのだ。
遺された登記簿の異変
再度法務局で閲覧した登記簿には、確かに以前「売買」と記載されていた痕跡があった。だが今は「贈与」に書き換えられている。そこに補正の記録がないのが不可解だった。
まるで誰かが、贈与という事実に書き換えてほしかったように見える。だがそれは、彼女ではないかもしれない。
旧住所に残る足跡
登記簿に記載された旧住所を訪ねてみた。そこには、近所の人しか知らない裏話が転がっていた。「あの人、亡くなった旦那さんの世話をずっとしてたよ。あれは、贈与じゃなくて、感謝だったんだろうね」
無言の証言者。人は時に、言葉より行動で真実を残すらしい。
謎の依頼と失踪の因果
翌日、彼女の連絡先に電話しても繋がらなくなった。調査の結果、数日前に遠方の介護施設へと入所していた。書類を持って事務所へ来たのは、その直前だった。
つまり、彼女にとって登記は目的ではなく、最後の気持ちの整理だった。
隠された手紙の発見
書類の封筒の奥に、さらに一枚の便箋があった。「ありがとうと伝える方法がわからなかった。でも、この名義が、わたしの精一杯のありがとうです」
心を読めというのは無理だ。でも、登記簿の一行に、そんな気持ちが宿っていたとしたら。
声なき証言者の存在
彼女の夫は、晩年ほとんど会話もできなかったという。彼が彼女に何を遺そうとしたのか、それは書類だけでは測れない。
証言しなかったのではなく、できなかった。だからこそ、残された手続きにすべてを託したのだろう。
想いは記録されていた
登記というのは、物の名義を変えるだけではない。時に、人の気持ちを後世に残すものでもある。表面だけを見ていたら、到底わからない。
やれやれ、、、司法書士も探偵みたいな仕事だ。いや、むしろサトウさんがシャーロックで、俺はワトソンかもしれない。
司法書士の推理と決断
今回は登記のやり直しや訂正は不要だった。法的には何も問題はない。ただ、気持ちがようやくこちらにも伝わった気がした。
俺の仕事は完了した。ただし、それが正義かどうかは、誰にも決められない。
登記より大切なもの
書類に書かれていないものを見抜く目。いや、それは目じゃなくて、人への関心なのかもしれない。登記簿では拾えない真実があることを忘れてはいけない。
紙の裏に宿る想いに気づける司法書士でありたい。そう思った。
最後の手続き
その日の終業間際、サトウさんが一言「おつかれさまでした」とだけ言って帰った。珍しく少しだけ柔らかい口調だった。
俺は気づいた。たぶんあれも、彼女なりの「わかってる」というメッセージだ。
誰かの気持ちを届けるということ
この仕事は、物理的な登記だけじゃない。誰かの気持ちを、別の誰かに正しく届かせることでもある。それに気づいたとき、少しだけ誇らしくなった。
やれやれ、、、たまにはいいことを言うじゃないか、俺。
エピローグ
また明日も、誰かの「声なき証言」に耳を澄ませるのだろう。書類の裏に、本当の依頼が隠れていることを忘れずに。
でもまあ、サトウさんの塩対応だけは、しばらく変わらないんだろうな。やれやれ、、、