静かな朝の依頼人
夏の陽射しがまだやわらかい午前九時、いつものように事務所の椅子に沈み込んでいた俺の前に、男が現れた。 手には擦れたクリアファイルを握りしめ、無言のまま座ったその様子は、どこか影をまとっていた。 「これ……祖父の土地のことなんですけど」そう言って彼が差し出したのは、古い土地の登記簿だった。
持ち込まれた古びた土地の謄本
紙の色は黄ばんでいて、文字の一部は読みづらくなっていた。昭和四十年代の記録に始まり、何度も所有者が移っていた。 だが、平成十五年以降の移転履歴が妙に整然としすぎている。まるで、誰かが意図して作った筋書きのように。 「祖父は亡くなる前、”あれは私の土地じゃない”って、呟いてたんです」と男は俯いたまま言った。
依頼人が口にした亡き祖父の言葉
この言葉がすべての始まりだった。本人確認も意思確認も済んでいたはずなのに、祖父は何かに気づいていたのだろうか。 この違和感を、単なる思い違いと片づけてよいのか。登記簿が、何かを隠しているような気がしてならなかった。 「サトウさん、過去の閉鎖登記簿も全部引っ張ってきて」と俺が言うと、彼女はため息一つで端末に向かった。
サトウさんの違和感
「あのですね、なんでこんなに連続して売買が成立してるんですか?」とサトウさんがぼそっと言った。 画面には、毎年のように所有権が移転されている履歴が並んでいた。しかも、どれも同じ司法書士の名前で登記されている。 「この人、同業者です。しかも、ちょっと有名な……やり口で」と彼女の目が鋭くなる。
登記簿の数字に隠された意味
売買価格の記載もどこか変だった。平成十九年からの移転記録、なぜか相場よりも高い金額で繰り返し登記されている。 「これは……マネロンのカモフラージュかもしれませんね」サトウさんが、腕を組みながら呟いた。 「でもこの件、税務署じゃなくて、うちで扱うって、どういうことなんでしょうか」と彼女は眉をひそめた。
事務所に響く塩対応の声
「調べるの、どうせアンタがやるんですよね?じゃあ、早く現地行ってください」 俺の反論を許さない調子で、すでに地図を印刷し、封筒に入れて差し出すサトウさん。 やれやれ、、、こっちはまだコーヒー一杯すら飲めていないってのに。
現地調査のはじまり
車を走らせて一時間。たどり着いたのは、雑草に覆われた空き家と、その奥にひっそりと建つ平屋だった。 風もないのに、軋むような音が耳元で響いた。近隣に住人の気配はなく、まるで時が止まったような場所だった。 「登記上の住所と一致……いや、表札が違う?」俺は玄関にかかる名前に、眉をひそめた。
雨上がりの空き家と古い表札
表札には「石田」とあった。だが登記上の現在の所有者は「佐伯」。まったく別の名前である。 建物の中からは誰も出てこない。敷地に踏み入ることすら躊躇するほど、空気がよどんでいた。 「これ、登記簿が正しいとは限らないな」と俺は独り言を呟いた。
隣人の証言と空白の十年間
隣家の老婆が口を開いた。「石田さん?あの人なら十年くらい前にいなくなったよ。夜逃げだって噂だったねえ」 しかし、登記簿ではその後も何度も移転登記が繰り返されていた。まるで幽霊と契約していたような……。 これは、ただの相続問題ではなさそうだと、直感が警鐘を鳴らしていた。
登記簿の履歴に潜む嘘
事務所に戻って調査を進めると、一つの事実にたどり着いた。平成十八年、ある時点を境に書類の字体が変わっている。 「この印影、スキャンじゃないですね。上からプリントされてます」サトウさんが無表情で言った。 つまり、捏造だ。誰かが意図的に、登記簿の一部を偽造していた可能性がある。
所有者の移転と不自然な時系列
同一人物が、違う名義を使って不動産を売買していた形跡が浮かび上がった。しかも、登記簿上は完全に合法に見える。 裏で協力していた司法書士の存在も見え始める。これはただの相続問題ではなく、組織的な登記利用だった。 「これは……警察案件ですね」サトウさんがポツリと呟いた。
真実を語る証書の断片
調査の過程で依頼人が持参した古い鍵の束。その一つが開けた倉庫の中から、もう一つの謄本が見つかった。 その中には、正式な実印と、かつての所有者である祖父の署名が残っていた。 しかも、そこには「譲渡を拒否する」と明確に書かれていた。
金庫に眠っていたもう一つの謄本
これが本物なら、今までの登記はすべて無効だ。つまり、あの土地はずっと石田家のものであり続けていたことになる。 「これ……裁判になるかもですね」と、依頼人は力なく笑った。 俺はその背中を見送りながら、「やれやれ、、、また厄介なことに首突っ込んじまったな」と天井を見上げた。
やれやれの決断と告白の夜
その夜、サトウさんがぽつりと呟いた。「これ、登記簿でなければ気づけなかったですよね」 俺は頷いた。「文字の連なりが嘘を語る。けど、ちゃんと見れば本当のことも残ってる」 「それ、推理漫画で聞いたことあるセリフですね」とサトウさんが小さく笑った。
真相とその代償
依頼人は、真実を知った代償として、長年信じていた親戚との縁を切ることになった。 だが、祖父の言葉の真意を知ることができたと、最後に頭を下げた。 登記簿は静かに語る。ただし、聞く耳を持つ者にだけ、その秘密を。