誰かとご飯を食べる予定がない週末に思うこと

誰かとご飯を食べる予定がない週末に思うこと

一人の週末は特別じゃなくていつものこと

週末に予定がないというのは、特別なことじゃない。むしろ、もう何年もそういう生活が続いていると「それが普通」になってしまった。最初は土曜の昼に誰かとランチしたり、夜に誘われたりすることを期待していた。だけど、時が経つにつれ、連絡も減り、自分からも連絡をしなくなり、気づけばひとりで過ごすのが当たり前になった。人付き合いが億劫なわけじゃない。けれど、誰かの予定に自分をねじ込む勇気がなくなってしまったのだ。

気づけば誰かと食事をすることが減っていた

昔は野球部の仲間と、先輩と、時にはお客さんと、よく外で食事をしていた。仕事が忙しくなり、誰かと予定を合わせるのが面倒になって、気づけば「自分ひとりの方が楽だ」と思い込むようになっていた。でも、楽なのと寂しいのとは別物だ。たとえば、誕生日の夜、ふと「今年も誰からも誘われなかったな」と思ってしまう瞬間、胸の奥がじわりと痛む。誰かとご飯を食べるという行為が、こんなにも人の心を満たすものだったなんて、最近になってようやく気づく。

予定がないのではなく声がかからないという現実

「今週末はゆっくりしたいだけ」と自分に言い聞かせてはみるけれど、本当は誰かからの誘いを待っている。誰かの「一緒にどう?」の一言で救われることもあるのに、そんな連絡は滅多にこない。こちらから声をかければいいと頭ではわかっていても、「迷惑かも」「急に言っても困るかも」と、勝手に遠慮してしまう。結果、予定がないのではなく、声をかけてもらえないという現実が残る。年齢を重ねるごとに、誰かと自然にご飯を食べるという当たり前が、どんどん遠のいていく。

コンビニ弁当とスーパーの総菜に詳しくなる

週末の夕方、近所のスーパーやコンビニで夕食を調達するのがルーティンになっている。お惣菜コーナーの配置も、コンビニ弁当のラインナップも、もはや記憶しているレベルだ。新商品が出ると「今週はちょっと当たりかも」なんて思ったりする。誰かと食べる特別な料理より、自分の胃袋を満たすだけの「手軽なご飯」が定番になってしまった。それが悪いわけじゃない。でも、時々、温かい料理を誰かと笑いながら食べたいという気持ちが、ふと湧いてくる。

味覚よりも手間を避ける日常の知恵

「美味しいものを食べたい」という欲求より、「楽に済ませたい」という気持ちが勝つことが増えた。仕事が忙しい平日は土日くらいはちゃんと自炊しようと思っていても、キッチンに立つ気力が湧かない。ご飯を炊いて味噌汁を作ることすら面倒で、冷凍うどんかパックご飯に手が伸びる。味気ないと感じながらも、「まあ、これでいいか」と納得してしまう。食事に対してのこだわりは、年齢とともに薄れていくものなのかもしれない。

食事がただの作業になる寂しさ

ご飯を食べるという行為が「ただのタスク」になってしまったと気づいたのは、テレビの音すらつけずに黙々と箸を動かしていた時だった。昔は、誰かと食べる時間が楽しみだった。今日は何を食べるかより、誰と食べるかが大切だった。今は、作業を終えるように食事をこなしているだけだ。たとえ美味しいものを用意しても、それを共に味わう人がいなければ、どこか物足りない。食事の本当の意味は、栄養補給じゃなくて、心のつながりだったんだと痛感する。

孤独という言葉を持て余す夜

夜になると、一日が終わった安堵と同時に、妙な虚無感に襲われる。仕事に追われている平日はまだいい。問題は週末、何の予定もない夜だ。布団に入ってから「このまま誰にも必要とされずに年を取っていくのかな」なんて考えてしまう。孤独って、実は騒がしい。スマホを何度も確認してしまうし、既読がつかないLINEに一喜一憂してしまう。別に誰かと常に一緒にいたいわけじゃない。でも、「誰かと一緒にいる可能性」がゼロの夜は、少しだけ怖い。

ひとり時間をポジティブにとらえる努力

「一人の時間も悪くないよ」と言う人は多い。実際、本を読んだり映画を観たりして、自分の世界に没頭するのは嫌いじゃない。ただ、それは「選んだ一人時間」の話であって、「誰にも相手にされないから仕方なく一人」では話が違う。自分に言い聞かせるように「これはこれで自由なんだ」と思おうとするけれど、ふとした瞬間に押し寄せる寂しさには勝てない。ひとり時間をポジティブにとらえるには、心のどこかに余裕が必要なのだ。

誰とも話さない週末に心が沈む瞬間

土曜の朝に目覚めて、誰からも連絡がない。昼も同じ。夜になっても、スマホは静かなまま。気づけば一言も発していないまま一日が終わってしまうことがある。そんな日が続くと、「自分って社会の中にちゃんと存在しているのかな」と不安になる。事務員とは平日にしか会わないし、母とはたまに電話をするくらい。ふとしたとき、誰かの声を聞きたくなるけど、電話をかける相手が思い浮かばない。こんな感情を誰かと共有できたら、少しは軽くなるのかもしれない。

人に頼られる仕事なのに自分は誰にも頼れない

司法書士という仕事は、人から頼られて成り立つものだ。相続の相談、登記の手続き、時には人生の節目に立ち会うこともある。だからこそ、「しっかりしている人」と見られる。でも、本当のところ、自分だって誰かに弱音を吐きたいし、支えてほしいと思うこともある。ただ、仕事の看板を背負っていると、それを見せるのが難しい。いつも「大丈夫です」と言いながら、心の中では「誰かに話を聞いてほしい」と叫んでいるのだ。

相談される立場と孤独のギャップ

仕事では毎日のように相談を受ける。みんな「こんなこと聞いてもいいのかな?」と遠慮がちに話しかけてくる。でも、いざ自分が誰かに相談したいと思っても、気軽に声をかけられる相手がいない。元野球部の仲間とは疎遠になり、仕事仲間ともどこか壁がある。相談される側でいるうちに、自分は誰にも頼れなくなっていた。強く見せるのが癖になりすぎて、本音を出せない。それが、自分で自分の首を絞めている気がして、時々つらくなる。

事務員には話せない男の本音

事務所にいる事務員は、仕事を丁寧にこなしてくれるし、気遣いもできるいい人だ。でも、やっぱり「職場の人」以上の関係にはなれない。男としての弱音や、寂しさを語れる相手ではない。冗談を交えた会話はできるけれど、内心のしんどさまでは話せない。だからこそ、どんどん本音が行き場を失っていく。話すことがないわけじゃない。ただ、それを聞いてくれる人がいない。そんな状況に、ますます孤独が深まっていく。

それでも仕事は続けていくしかない

どれだけ寂しさや孤独を感じても、月曜日は来るし、仕事は待ってくれない。誰かとご飯を食べる約束がなくても、書類は山積みだし、相談はやってくる。だから、泣き言を飲み込んで今日も机に向かう。プロとしての顔を保ったまま、笑って対応する。でも本当は、ちょっとだけ「誰かと焼肉にでも行きたいな」と思っている。そんなささやかな希望を持ちながら、また一人の週末を迎えるのだ。

食事が誰かと心をつなぐ手段だとしたら

食事はただの栄養補給じゃない。誰かと心を通わせる、ささやかな儀式だ。最近、久しぶりに昔の友人と定食屋に行った。味はいつも通りだったけれど、なぜかやけに美味しく感じた。箸を動かしながら、たわいもない話をする。それだけで、心がほぐれる。やっぱり、人と食べるご飯には不思議な力があるのだと思う。

久しぶりに人と食べた昼ご飯の感情

その日、偶然電話をくれた同級生と昼ご飯に行くことになった。行き先は昔ながらの食堂。メニューは変わっていなかったが、会話の温度だけは昔よりずっと優しかった。「また連絡するよ」と言われたとき、なんだか救われた気がした。食事の場は、言葉以上に気持ちを伝えてくれる。自分も誰かのそんな存在になれたら、と思った。

誘われたいけど誘われない葛藤

人付き合いが苦手なわけじゃない。でも、待っているだけでは何も起きないのもわかっている。誘ってもらえないからといって、自分に魅力がないと決めつけるのは早いかもしれない。けれど、そう考えてしまう心のクセがある。そんな時、自分から声をかけてみようと思う。小さな一歩が、次の週末を少し違ったものに変えてくれるかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓