奇妙な依頼と古びた登記簿
それは湿気の多い雨上がりの午後だった。事務所のドアが軋んで開いたとき、妙に焦げ臭い傘とともに現れたのは、年配の女性だった。彼女の手には分厚い封筒が握られており、中からは擦り切れた登記簿謄本の写しが覗いていた。
「この土地、名義は亡くなった兄のままなんです。でも、本当は私が持っているはずで……」彼女の視線は僕ではなく、遠い過去の一点に向けられていた。
突然持ち込まれた一冊の謄本
その登記簿の写しは昭和62年の日付で止まっていた。そこには兄の名前と共有名義の女性の名前があった。だが、その女性の名義変更や抹消の記録は一切なかった。まるで彼女の存在だけが宙ぶらりんになっているようだった。
「これは……ちょっと普通じゃないですね」僕は呟いた。事務所の片隅で、サトウさんが「いつも普通じゃないでしょう」と、塩の効いた声を返したのが聞こえた。
記録に残るはずのない取引
依頼人の話を聞くうちに、ある言葉が引っかかった。「兄と女の人は、紙に何か書いてたんです。念書とか……」昭和の時代、契約書はきっちり登記されないことも珍しくなかった。だが念書となると話は別だ。
昭和の終わりに交わされた念書
古い文書の束から見つけ出した一枚のコピー、それが「土地譲渡に関する念書」だった。ただし、日付も印紙もなく、両者の署名があるだけの紙切れだった。これだけで法的効力があるかと言われれば、かなり怪しい。
「まるでルパン三世の置き手紙ですね」と僕が呟けば、サトウさんが「ルパンのほうがまだ誠意があります」と冷たく返してきた。やれやれ、、、僕のユーモアはどうも通じない。
サトウさんの鋭い指摘
事件が進展し始めたのは、サトウさんのひと言がきっかけだった。「先生、この数字……間違ってません?」彼女が指さしたのは、登記簿の余白に鉛筆で書かれた「37.6」という数字だった。
登記簿の余白に書かれた数字
それは地積、つまり土地の面積を意味していた。だが、登記簿に記載された数字とは微妙に異なっている。これは測量士が現場でメモしたものではないかと気づいた瞬間、頭の中に何かがひらめいた。
「この土地、現地と登記がズレてますね。つまり……名義と実際の使用者が一致していない」僕は立ち上がり、棚の奥から古い地積測量図を引っ張り出した。
かつての地主と謎の地上権
登記簿には記録されていない、だが確かに存在した通路。しかもそれは、問題の土地を通り抜けて隣家へと続いていた。昭和の終わりに作られた私道のようなものだった。
地図に載らない通路
僕は古地図と航空写真を並べて確認した。すると、昔の道筋と現在の土地境界が微妙にズレていることがわかった。このズレこそが、今回の騒動の発端だったのだ。
「つまり、名義変更をするにはその道の使用権、つまり地上権をどう処理するかが鍵になります」と僕が言えば、サトウさんは「知ってました」と素っ気なく答えた。
証言と記憶のずれ
地元の自治会長に話を聞くと、「あの道は、昔から近所みんなで使ってたよ」と軽く言う。しかし記録として残されていなければ、法的には無意味に等しい。
新聞の片隅にあった過去の事件
図書館で見つけた古新聞の片隅に、「地上権に関する近隣トラブル、火事の可能性も」という小さな記事が載っていた。昭和63年、あの家でぼや騒ぎがあったらしい。
僕の脳裏に疑念が走った。あの女の人は、自分の土地を守るために登記を避けていたのではないか。あるいは、火事を機に何かを隠そうとしたのか。
やれやれ、、、僕の出番か
それからの数日は、過去の書類と格闘する日々だった。古い契約書、補助者の手紙、火災保険の申請書まで引っ張り出し、ようやく一つの線に繋がった。
「結局、人は記録を恐れるんだな……」と僕は呟いた。だが司法書士はその記録を扱う仕事だ。逃げられないし、逃してもいけない。
真犯人と偽装された所有権
全ての元凶は、当時の共有者の一人が「登記を放置することで、相手の権利を自然消滅させよう」としたことだった。実際は名義のままでも黙示の使用貸借が続いていたのだ。
譲渡証書の筆跡鑑定
依頼人が提出した譲渡証書の筆跡を、僕はある書士の目利きで確認した。偽造だった。これで名義変更も、遺産相続も、全ての根が腐っていたことが証明された。
司法書士としての矜持
「依頼人には、この土地を明確に相続放棄させたほうがいいでしょう」と僕は冷静に伝えた。正義とは、時に希望ではなく現実を突きつけることでもある。
依頼人に届けたひとつの答え
「ありがとうございます……兄の影から、やっと解放された気がします」依頼人がそう呟いたとき、僕の中の疲労が少しだけ癒えた気がした。
サトウさんの皮肉とコーヒーの香り
事務所に戻ると、サトウさんがインスタントコーヒーを差し出してきた。「先生、正義って疲れるんですね」僕は黙ってそれを受け取り、デスクに腰を下ろした。
事件の終わりに訪れる日常
静けさが戻った午後の事務所。外では蝉が鳴いていた。僕のパソコンには、また新しい登記の依頼が届いていた。
そして僕は今日も書類に埋もれる
サトウさんの塩対応を背に受けながら、僕はまた新たな謎と格闘する準備を始めた。昭和も令和も、人はややこしい。そして登記簿は、そんな人間模様を静かに記録している。
だが、ほんの少しだけ背筋が伸びた
やれやれ、、、今日もまた眠れそうにない。でも、ちょっとだけ自分を誇れる日だった気がする。