朝の郵便物と一通の遺言書
その朝、事務所に届いた封筒の山の中に、ひときわ古びた茶封筒が混じっていた。宛名は達筆な毛筆体で、封筒の裏には「遺言書在中」とだけ書かれていた。中を開けると、明らかに素人が作ったと思われる遺言書と、不自然な署名が現れた。
司法書士事務所に届いた不審な依頼
依頼人は電話で「父の遺言書を確認してほしい」とだけ告げた。簡素すぎる文面と、妙に丸みを帯びたサインが妙に引っかかった。あまりにも整いすぎている――まるで漫画の中の怪盗が変装に失敗したような、不自然さがあった。
サイン入り遺言書が意味するもの
遺言書の内容は、被相続人の全財産を「元妻」と名乗る女性に譲るというもの。だが、その「元妻」は相続人としては微妙な立場にあり、他の親族との関係も曖昧だった。なにより、被相続人が最後に会った人物とは記録上で異なっていた。
サトウさんの無言の指摘
サトウさんは一瞥しただけで「筆跡が変ですね」とつぶやいた。それだけで充分だった。彼女の眼力は鋭く、文字のバランスや癖を見抜くのは日常茶飯事だった。私はあわててルーペを取り出し、文字のクセを確認した。
「筆跡が変ですね」の一言
“本物のサイン”を見慣れていれば、偽物はすぐにわかる。そう言わんばかりの口調で、サトウさんはそっと紅茶を飲み始めた。私はまたしても彼女の観察眼に舌を巻きながら、遺言書の端に小さく書かれた日付に目をやった。
誰が書いたのか分からない署名
署名は漢字のはずなのに、カタカナのような歪な筆圧で、途中でインクの濃さも不安定だった。まるで震える手で書いたようにも見えたが、逆に緊張感のない流れるような線が混じっている。どこかで見た筆跡だが、思い出せなかった。
被相続人の奇妙な死と残された財産
依頼人いわく、父は静かにベッドの上で亡くなったという。しかし、死亡診断書に記載された死亡時刻と、遺言書の日付は一致していなかった。しかもその数日前、家の中から盗まれた形跡もあったという。
死亡時刻と署名の日付が合わない
遺言書に書かれた日付は、父がすでに入院していた日と一致していた。だが、その日には面会者がいなかったと病院側は主張していた。いよいよおかしい。死後に書かれた可能性まで視野に入れるべきかもしれない。
遺産の中にあった高額な絵画
財産の中に、妙に高価な絵画が一枚混ざっていた。それは最近のオークションで高額落札された画家の作風によく似ていた。まさか、これが目的だったのか。だとすれば、遺言書が偽造された可能性は高い。
元妻と名乗る女の出現
そこに現れたのは、派手なメイクをした中年女性だった。「私が妻です」と言い放った彼女は、記憶力がやたらと良く、しかも過剰に遺言書の正当性を訴えていた。何かがおかしい。まるで台本を読んでいるようだった。
不自然に記憶力のいい人物
彼女は「主人はその日、私にこう言いました」と、まるで録音された台詞のように詳細を語った。しかし、それがかえって不自然だった。人は思い出そうとするほど、細部が曖昧になるものだ。
矛盾だらけの証言と演技
「私はこのサインを見て涙が出ました」と語る割に、彼女は署名の位置を間違えていた。さらに、夫の愛用していたペンについても知らなかった。やれやれ、、、素人の演技は見ていて辛い。
筆跡鑑定の申し出を拒む依頼人
こちらから筆跡鑑定の提案をすると、彼女は露骨に嫌な顔をした。「そんな必要あります?」と焦る姿が、ますます自白に近づいていくのを感じた。サトウさんがため息をつくのも無理はなかった。
「そんなこと必要ない」の違和感
本物であれば、鑑定されることを恐れる必要はない。それなのに頑なに拒否する態度は、逆に「見られては困る」心理の表れだ。私はもう、ほぼ確信していた。
サインを強調しすぎる理由
彼女は「これは間違いなく夫の筆跡です!」と何度も念を押した。だが、その強調こそが、焦りの裏返しだった。真実であれば、そんなに繰り返す必要はない。
昔の野球部ノートと同じ癖
帰宅してふと、押入れの奥から高校時代のスコアブックを取り出した。なぜか――あの偽造されたサインの文字に、見覚えがあったからだ。ページをめくると、あった。あの変な“トメ”の癖。犯人は、昔のマネージャーだった。
シンドウが気づいた文字のクセ
同じ“吉”の字の書き方、同じ“中”の縦棒のねじれ。まさかとは思ったが、昔、スコアをつけていた彼女の字だった。彼女は今、依頼人の「姉」として遺言書の作成に関わっていた。
あの頃のスコアブックの記憶
「一生懸命書いたのに、誰も読んでくれなかった」と笑っていた彼女の声が思い出された。そう、彼女の字は特徴的すぎたのだ。そして今回は、それが仇になった。
決定打はボールペンの種類
さらに証拠が揃ったのは、あのボールペンだった。遺言書に使われたインクは、百円均一の特定のペンのものだった。病院には持ち込みが禁止されており、彼女のバッグから同じペンが見つかった。
百円均一にしかないあのペン
筆跡とペンが一致したことで、彼女は観念した。泣きながら「彼の遺産でやり直したかった」と告白した。絵画の件も、彼女の指示だったことが判明した。
日付とインクの色のズレ
インクの染料成分が変質しており、実際の使用時期と一致していなかった。つまり、遺言書は明らかに後日書かれたものであると証明されたのだ。
犯人の自白とサトウさんの冷静な一言
結局、彼女は罪を認めた。詐欺未遂で告発されたが、財産はすべて本来の相続人へ戻された。サトウさんはファイルを片付けながら、ぽつりと言った。「筆跡って、癖なんですよ」。
署名が暴いた遺言の嘘
そのサインは、亡き父の意志を示すどころか、まったく逆の真実を浮かび上がらせていた。紙の上で嘘をつくのは簡単だが、字は正直だった。
遺産は誰のものだったのか
本来の相続人である実子たちは、財産よりも父の遺志が大切だと語った。法は冷たく見えて、その実とても人間的な結果をもたらすことがあるのだと、久々に感じた瞬間だった。
偽装された遺言の法的無効
裁判所は遺言書の無効を認め、筆跡と状況証拠を重く見た。手続きが終わったとき、私は心の中で呟いた。「やれやれ、、、こういうのはサザエさんの最終回くらい後味が悪い」。
今日も地味に解決する司法書士
誰にも知られず、誰にも褒められず、地味に終わった一件。でも、それでいい。華やかさはないが、こうしてまた一つ、日常が守られたのだから。私はそっと、スコアブックを棚に戻した。