古びた町の司法書士事務所
午前九時の静けさ
朝の光がブラインド越しに差し込むなか、私はぼんやりとコーヒーを啜っていた。事務所にはまだ依頼の電話も鳴らず、静けさが支配していた。サトウさんは既に出勤しており、黙々と書類に目を通している。
この静かな時間が、まるで嵐の前触れのようだと気づくのは、いつも決まって何かが起きてからだった。
やれやれ、、、平和は長くは続かない。
サトウさんの冷たい指摘
「所長、その書類、昨日のものでしたよ。今日の分はこの下です」 目も合わせずに淡々と指摘する彼女に、私は内心で小さくうなだれた。どうやらまたうっかりしていたようだ。 野球部時代の感覚が今も抜けないのか、プレーで挽回できると思っている節が自分にもある。
しかし、司法書士の世界にホームランはない。あるのは、地道な確認作業と、書類の山だ。
依頼人は隣の部屋の住人
「登記簿から名前が消えているんです」
その日、ひとりの女性が訪ねてきた。年の頃は三十代後半、疲れたような顔で「隣の部屋に住んでいた伯父の名前が、登記簿から消えているんです」と言った。
最初は意味が分からなかった。登記簿は事実を記録するものだ。魔法のように誰かの名前が「消える」なんてことがあるだろうか。
だがその目は本気だった。これは何かある、と直感した。
怪しい一筆書きの遺言書
持参されたのは、線の乱れた自筆遺言書だった。内容は単純で、「すべての財産を姪に譲る」と書かれている。 だが、そこには伯父の名前も住所も記載されておらず、証人の署名もなかった。
「これじゃあ、ただのメモですよ」 サトウさんが冷静に言い放つ。
私はため息をつきながら、その紙片を封筒に戻した。
現地調査という名の散歩
住宅地図にない玄関
午後、私は件の物件に向かった。町のはずれ、住宅街の一角にそのアパートはあった。驚いたことに、登記簿に記されていた「〇〇アパート101号室」の場所には、玄関が見当たらなかった。
いや、正確には、玄関らしきドアはあるが、郵便受けも表札もない。まるで「存在しなかったこと」にされているようだった。
「怪盗キッドが使いそうな仕掛けですね」 思わず、昔読んだ漫画のトリックを思い出す。
郵便受けに残る違和感
唯一の手がかりは、共有スペースの郵便受けだった。剥がされかけた名前シールの下に、かすかに「アンドウ」と読める文字が残っていた。
「おかしいな……」 不意に寒気が走る。誰かが、確実に「消そう」としている。
それも、ずっと前から計画的に。
登記情報の闇を覗く
閉鎖登記簿に潜む履歴
法務局で調べると、案の定、101号室の登記簿は閉鎖されていた。所有者の履歴を見ると、確かにかつて「アンドウ ヒデオ」という人物がいたが、三年前に住所変更された後、相続もされず、不自然な形で抹消されていた。
これは、ただの失踪ではない。 何か意図がある。
所有者の変遷と不自然な時系列
さらに不審なのは、隣の102号室の所有者が、わずか一週間後に「合筆登記」で101号室とまとめていたことだ。
つまり、物理的には二部屋存在するが、法的には一つの部屋にされていた。
「分筆ミスか、いや、誰かが……」
ご近所の証言集め
「あの人は去年の春に……」
近隣住人に話を聞くと、皆、似たような証言をした。「あの人は春に引っ越したよ」「荷物を夜中に運び出していた」「最後に見たのは桜が咲く頃」 だが、どの証言も具体性に欠けていた。
まるで誰も「見ていない」ことにしたがっているようだった。
大家の供述と食い違う記憶
管理会社に連絡を取ると、「その部屋には十年誰も住んでいない」と言われた。だが、郵便物、靴の跡、住民の証言……どう考えても、誰かがいた。
記憶の改ざん?まさか、、、。
「それ、催眠術レベルですよ」とサトウさんが鼻で笑う。
一通の謎の委任状
偽造された筆跡
依頼人から後日提出されたのは、アンドウ名義の委任状だった。 だが、筆跡を以前の登記申請書と照合すると、一目瞭然だった。
全くの別人の字だった。
封筒の消印が語るもの
封筒の消印は、物件の近所ではなく、遠く離れた地方都市のものだった。しかも日付は、アンドウ氏の「失踪」から一年以上後。
つまり、その委任状はあとから作られた。もしくは、まだ彼が生きているか、誰かが成りすましている。
塩対応サトウさんの逆転の一言
「これ、合筆じゃなくて分筆ですね」
突然、サトウさんが言った。「この図面、合筆って言ってるけど、法的には実体が分かれてますよ」 私は一瞬で理解した。誰かが、書面上だけで一つにまとめ、実体を覆い隠していたのだ。
「不動産登記法違反、あるかもしれませんね」 珍しく彼女の目が少し輝いていた。
登記官のミスか意図的な改ざんか
登記官に照会すると、やはり処理ミスを認めた。だがその裏には、売買契約書を偽造して提出した第三者がいた。
その人物は、現在行方不明。
ここまでくると、もはや司法書士の仕事を超えている。
過去の登記に隠された真実
失踪届と相続放棄の関係
警察に確認すると、三年前にアンドウ氏の失踪届が提出されていたことがわかった。同時期、法定相続人である姪が「相続放棄」をしていた記録も見つかる。
すべてが仕組まれていた可能性が濃厚となった。
消された権利者の正体
登記から抹消されたアンドウ氏は、実際には生存していた。遠方の老人ホームに身を寄せていたことが、後に判明した。
彼は全てを語ろうとはしなかったが、「もう疲れたよ」とだけ呟いた。
司法書士としての最後の一手
一筆で蘇る正当な所有者
私は訂正登記の申請書を作成し、正当な手続きを踏んで、物件の名義を修正した。全ての資料を整理し、過去の闇に光を当てる。
司法書士にできるのは、それだけだ。
遺産分割協議のやり直し
再度、遺産分割協議が行われ、姪とアンドウ氏の関係も少しずつ修復された。 結末は決して美談ではなかったが、それでも、正しさは戻された。
そして隣人は戻らなかった
やれやれ、、、静かな町に戻っただけか
事件が終わり、私はまた静かな事務所に戻った。 やれやれ、、、ただの司法書士にしては、ずいぶん歩き回ったものだ。
だが、登記簿には確かな足跡が残る
人は消えても、記録は残る。登記簿はただの紙切れかもしれないが、そこには人の歴史が刻まれている。
私の仕事は、それを読み解き、必要であれば、正すことだ。