依頼人の沈黙
その男は、午後一番の雨の中やってきた。濡れたスーツの裾を引きずりながら、無言で応接椅子に腰を下ろした。僕は書類の山をかき分けて、冷めたお茶を彼の前に置いた。
「仮登記を見てほしいんです」彼はようやく口を開いた。濁った目が、何かを言い淀んでいるようだった。
仮登記とはいえ、依頼内容には何か重たい気配があった。しかも、登記簿の番号がどこかで見覚えのある地番だったのだ。
雨の日に訪れた男
その日、天気は最悪だった。サトウさんは「湿気で紙がふやける」とだけ言い残し、除湿器のスイッチを押していた。僕は、カップの底を見つめながら、依頼人の素性を思案していた。
名刺には「元不動産業」とだけ書かれていた。会社名もない、電話番号すら記されていない。まともな依頼とは言い難い。
だが仮登記の写しを見た瞬間、僕は背筋が凍った。そこには、十年前に亡くなったはずの名義人の名前があったのだ。
仮登記の謎めいた内容
名義人は「大川百合子」。確かに十年前に死亡していた。僕が当時担当した遺産整理の案件だった。記憶の底から、彼女の娘が泣きながら手続きをしていた姿が蘇った。
「この登記、最近申請されたものです」と男が言った。僕は目を疑った。まさか、故人名義で仮登記を申請した者がいるというのか?
しかも、申請日付はつい三ヶ月前。法務局が通したのも信じ難いが、もっと問題なのは、誰がその仮登記を申請したのかだった。
サトウさんの冷たい推察
「これ、詐欺じゃないですか」そう言ったのは、事務所の奥から顔を出したサトウさんだった。相変わらず感情を感じさせない目で、彼女は登記簿をのぞきこんだ。
「印鑑証明が偽造されてる可能性ありますね。というか、この大川さんって、死んでますよね?ニュースにもなってましたし」
さすがはサトウさん、僕より記憶力が確かだ。僕はしばらく黙って頷くだけだった。
過去の登記との矛盾
十年前の登記と照らし合わせると、不自然な点がいくつも見つかった。例えば、住所の表記が旧表記のままだったり、筆跡がかすかに異なっていたり。
普通の人なら見落とすところだが、司法書士として書類の癖を何百枚と見てきた僕には、違和感がはっきりわかる。
それに、書類には消えかかった朱印が押されていた。まるで「誰かになりすましている」ような、意図的な加工が施されているようだった。
古い書類に隠された真実
書庫から引っ張り出した過去の申請書類を確認すると、そこには娘の筆跡で「登記抹消希望」の付箋が貼られていた。百合子の名義を消す手続きは、実は行われていなかった。
なぜなら、当時の相続人同士で揉めていたからだ。遺産の処理が宙ぶらりんになっていたことを、僕はそのとき初めて思い出した。
「そこに目をつけた人間がいたってわけですね」サトウさんが、まるで刑事コロンボのように呟いた。
所有者の変遷
地番の履歴をたどると、件の土地は数回にわたって名義変更がなされていた。だが、いずれも仮登記止まりで、本登記には至っていない。
それはまるで、土地が誰にも「本当に」渡っていないことを意味していた。
不動産を担保に金を借り、仮登記でそれを担保として見せかける。典型的な手口だった。
名義変更が語る人間関係
確認を進めるうち、ある不動産会社の名前が何度も出てきた。「ナミヘイ不動産」。社長の名前は「磯野貞吉」。どう考えても、ふざけた名前だ。
だが、その会社は不自然なほど多くの仮登記に絡んでいた。まるで、全国の「死蔵地」を探し回っているようだった。
「これ、サザエさん一家の土地とかも危ないんじゃないですか」とサトウさんが冷たく笑った。たしかに、タラちゃんもびっくりだ。
もうひとつの顔
依頼人の男が突然口を開いた。「自分がやったんです」僕とサトウさんは顔を見合わせた。あまりにあっさりした自白だった。
「でも、誰にも渡したくなかったんです。百合子さんの土地は、僕と彼女だけの思い出の場所でしたから」
それは愛情か執着か、境界線のあいまいな感情だった。
仮登記の名義人の正体
名義人として登記されていたのは、百合子の旧姓だった。つまり、彼女が独身時代に使っていた偽名で、過去の住所もすべて虚偽だった。
完全な別人として、土地の所有を装っていた。しかも、その登記はほとんど誰にも気づかれずに数ヶ月間存在していた。
「やれやれ、、、また面倒な話になってきたな」と、思わず呟いた。
隠された取引
依頼人の目的は金ではなく、百合子との記憶を留めることだったのだろう。だが、それが法律を超えてはいけないことくらい、彼もわかっていたはずだ。
彼は最後に、登記の抹消を希望して事務所を後にした。雨はすでに止んでいた。
サトウさんはひとこと「ロマンと犯罪は紙一重ですね」とだけ言って、デスクに戻っていった。
サトウさんの一言で決着
その日の夕方、法務局に訂正申請を提出し終えた僕は、事務所の椅子にもたれかかった。事件は解決したが、後味はあまりよくなかった。
「ま、そういうこともあります」とサトウさん。彼女の声には、ほんの少しだけ優しさが混じっていたような気がした。
いや、気のせいかもしれない。僕の人生、そう簡単にドラマにはならないのだ。
誰も得しない終わり方
土地は、再び法的な無主地に戻った。依頼人はどこかへ消え、百合子の記憶だけが静かに残った。
僕は、案件のファイルに「完了」と書いて棚に戻した。静かな終わり方だったが、それでいい。
まるでサザエさんの最終回のように、何も変わらず、ただ日常が戻ってきただけだった。