朝の来客とひとつの依頼
事務所のドアが開いたのは、いつものようにサトウさんが無表情でコーヒーを啜っていたタイミングだった。俺はその音で目を覚まされたように体を起こしたが、寝ぐせと書類まみれの机に反省の色はない。客は中年の男で、スーツの肩に若干の埃が目立っていた。
「抵当権の抹消をお願いしたいんです」と彼は言った。声には緊張があり、サトウさんが横目でじっと見ているのがわかった。俺は頷きながら、用意された書類を確認する。妙な違和感が喉の奥にひっかかったが、その時は深く考えなかった。
サトウさんの無表情なアナウンス
「書類、不備ありますね」サトウさんが言った。淡々と、まるで天気予報のように。彼女の指摘は的確で、本人確認書類の日付が最新のものではなかった。だが、依頼人は動じずに「また持ってきます」とだけ答えて帰っていった。
俺はその背中を見送りながら、どこか釈然としない気持ちに包まれていた。書類は一応揃っていた。しかし、なぜか「完璧すぎる」。抵当権抹消の手続きに慣れている人間がやるような丁寧さだ。
抵当権抹消の手続き依頼
登記簿上の所有者が死亡しており、相続登記後に抵当権を消すという流れ。それ自体は珍しくない。だが、本人確認情報の提出方法が、まるで模範解答のように整いすぎていた。俺はあの依頼人が話していた住所をふと思い出し、なぜか胸がざわついた。
「サトウさん、これって最近話題になった事件の場所と同じだったりしないか?」俺の問いに、彼女は少し眉をひそめた。
謎めいた申請者
次に男が来たのは二日後だった。前回よりもずっと落ち着いた様子で、「これで手続きお願いします」と言って書類を差し出した。俺は一通り確認し、受付印を押した。
だがその夜、テレビから聞こえてきたニュースに俺は凍りついた。「◯◯町で密室殺人。被害者は登記簿の所有者」俺はすぐさま机の書類を引っ掻き回した。抵当権を抹消しようとしていたその物件。そこがまさに犯行現場だったのだ。
不動産を相続したという男
「相続登記、されてませんよ」とサトウさんが冷静に言った。俺の手が止まった。たしかに相続を証明する戸籍や遺産分割協議書は提出されていたが、それらの写しにどこか不自然な点がある。
本来ならば、法務局から指摘が入るレベルの不備。それを俺が見落としていた? やれやれ、、、これは完全に一本取られたかもしれない。
住所不明の登記識別情報
「登記識別情報が再交付された痕跡がある」とサトウさんはつぶやいた。俺は彼女の指差す部分を見て目を見開いた。所有者が亡くなったあと、なぜか再交付の記録が登記簿に残っていたのだ。
これはあり得ない。本人が死亡しているのに、識別情報を誰かが使って登記を動かそうとしていた。つまり、誰かが所有者になりすましていたことになる。
密室殺人の報
テレビの中では、犯人が密室でどのように犯行を行ったかの特集が組まれていた。玄関の鍵は内側からかかっており、窓にも異常なし。だが、ひとつだけ不可解な点があった。
「死亡推定時刻の前に、登記の書類がうちに届いていたってことか」と俺が言うと、サトウさんがゆっくり頷いた。つまり、殺人は登記申請の後に起きた。殺人が目的ではなく、登記を成立させることが最優先だったのではないか?
サザエさんを見る暇もなく
「日曜の夕方なのに、全然休まらないですね」俺がつぶやくと、サトウさんは「サザエさん症候群ですね」と一言。俺は笑いかけてやめた。俺にとって日曜は書類地獄、カツオのように元気よく逃げられない人生だ。
しかし今回ばかりは、少しばかり名探偵っぽくなる必要がありそうだ。
警察が訪ねてきた理由
翌朝、警察が事務所を訪れた。殺害された所有者の登記識別情報が、俺の受け取った申請書類に使われていたのだという。「司法書士の先生にお聞きしたいんですが…」と刑事が言った。
俺は深くため息をついてから、サトウさんを一瞥し、静かに言った。「その書類、偽造の可能性が高いですよ」
現場に残された書類と鍵
俺は警察に同行し、現場となった家を訪れた。そこには確かに俺の事務所で見たような書類が散らばっていた。だがその中に、ひとつだけ違う様式の古い書式が紛れていた。
サトウさんがその場で「平成の様式ですね」と言い当てた。書類は一貫性がなかった。つまり誰かが偽造のために別の物件の登記書類を流用していたのだ。
司法書士だけが気づく違和感
登記識別情報の記載位置が微妙にずれている。それは一般人にはわからないが、毎日申請書類を扱っている俺には一目で分かる違和感だった。「これ、スキャンして改竄してるな」
俺は刑事にそう伝えた。犯人はおそらく偽造書類で登記を成立させようとし、それを隠すために本物の所有者を殺害した。だが、その痕跡は微妙なズレに残っていたのだ。
登記簿の空欄が意味するもの
登記簿には空欄があった。本来、登記識別情報の再交付は備考欄に記録される。だが、今回の登記簿にはそれがない。つまり、登記情報は「再交付がなされた」ように偽装されていたのだ。
それこそが、犯人のミスだった。完璧を装うほど、不自然になる。それに気づいたのが、地味な司法書士だったというわけだ。
サトウさんの冷静な推理
「たぶん、相続人になりすました男が偽造書類を用意して、司法書士に持ち込んで信頼を得ようとしたんでしょうね」
「そして、登記が終わったら被害者を消す。あとはしれっと名義変更して売却か…」俺が言うと、サトウさんは「未遂でよかったですね」とぼそっと言った。
あの依頼人の署名に潜む矛盾
最後に俺たちは、依頼人が残した委任状を再確認した。そこで気づいた。「これ、筆跡が変わってる」
最初の提出書類と、後日の追加書類。その署名が違っていた。これが決め手となり、警察はその男を逮捕した。
登記申請書が語る真犯人
登記申請書には、殺意が記されていた。そう言っても過言ではない。冷静に整理された書類の中にこそ、犯罪者の計画性が現れていた。
俺たち司法書士は、紙と数字の世界に生きている。だが今回、それが命を奪う道具になりかけた。やれやれ、、、たまには派手な事件も悪くないが、事務処理で終わるほうが平和だ。
消された抵当権と計画された殺人
抵当権の抹消は結局、被害者死亡によって未了となった。登記は一時的に保留。俺はその処理をしながら、事件の一部始終を思い返していた。
犯人が狙ったのは、「無知」ではなく「信用」だった。司法書士という立場を利用しようとした。俺は書類を閉じて、コーヒーを一口飲んだ。
終わらない事務処理と小さな勝利
事件は解決したが、山積みの書類は減らない。依頼人は減らず、電話は鳴り止まない。
だが、その日だけはほんの少しだけ、胸を張ってもよかった。司法書士でも、人の命を救うことがあるのだ。
やれやれ、、、やっと終わったと思ったら
「先生、次の予約の方です」サトウさんの無機質な声がした。俺は椅子に深く座り直し、ため息をついた。
やれやれ、、、登記簿の空白には、まだまだ謎が詰まっているようだ。