偽りの本籍地
朝イチで届いた一通の封書
事務所に出勤すると、机の上に見慣れない封筒が置かれていた。宛名は俺、差出人は市役所の戸籍課。中身は本籍地に関する通知書で、よく見ると記載されている住所が——俺の自宅住所になっている。だが、名前はまったく見覚えのない男のものだった。
思わずサトウさんの机を振り返ったが、彼女はすでにパソコンを叩いており、こちらを見る気配すらない。朝から妙なものを見せられた気分だ。
赤い印字の「本籍」欄が語る違和感
通知書の「本籍」欄には、明らかに俺の住所が印字されていた。郵便番号も建物名も合っている。ただし名前は「天野翔」。まるでどこかの少女漫画に出てきそうなキラキラネームで、ますます現実味がない。
「こんな名前、俺の周りにはいなかったはずだが…」と思いながらも、何かが胸につかえていた。司法書士という職業柄、ちょっとした違和感が事件に繋がることはよくある。
サトウさんの塩対応と冷静な一言
「サトウさん、この人、俺の住所を本籍にしてるんだけど…」と尋ねると、「それって、登記に関係ないんで調べる意味あるんですか?」とサトウさん。今日も変わらぬ塩対応である。
とはいえ彼女は手早く住基ネットで当該人物の動向を調べ、「死亡してますね。昨年、都内で」とポツリと言った。俺は思わず、背筋が寒くなった。
男の名前と私の住所の奇妙な関係
亡くなった人間の本籍が、なぜ俺の自宅なのか。戸籍上の本籍地は自由に設定できるとはいえ、知らない他人の名義で勝手に使われるのは気味が悪い。
もしかして、過去に関わった事件の関係者だろうか。頭を巡らせても「天野翔」という名前には引っかかりがない。だが、どこか既視感があった。
登記簿に現れた不自然な転籍履歴
市役所に電話して事情を説明すると、担当者は驚いた様子で「彼の本籍は、ここ数年で何度も変更されていまして…」と教えてくれた。履歴を見ると、全国を転々とし、最終的に俺の住所に落ち着いていた。
なぜこんなことを?——俺の司法書士としての勘が騒ぎ始める。これは単なる偶然ではない。何かの意図が、そこにある。
昔の恋人か 他人の悪意か
何気なく旧姓の知人リストを確認していると、一人だけ気になる名前が浮かび上がった。「天野麗子」。大学時代の元カノだ。麗子は一時期、家出同然で東京に出ていたことを思い出す。
その後、誰かと結婚したと風の噂で聞いたが、詳しいことは知らなかった。まさか、翔という名の子どもがいたのだろうか?
戸籍附票から浮かび上がる女の影
戸籍附票を取り寄せると、確かにそこには「天野麗子」の記載があり、翔の母親として記録されていた。そして住所変更欄の最下段には、うちの住所と同じ地番がある。しかも、俺が引っ越す数週間前の日付だ。
つまり、彼女は俺の引越し前に同じ部屋に住んでいたのか?それとも…俺の部屋を使って、何かを隠そうとしていたのか。
「彼の死亡届が出ています」
法務局の知人から連絡があった。「天野翔の死亡届、母親が出したそうです。死亡地は墨田区、死因は自殺」——それを聞いた瞬間、すべての筋道が一本に繋がった気がした。
あの麗子が、自分の息子の本籍を俺の住所にしたのは、偶然ではない。意図的な偽装。本籍が唯一、記録に残らない「居場所」だからこそ。
本籍移転と借金逃れのスキーム
さらに調査を進めると、翔には多額の借金があったことが判明した。借用書の一部には、俺の住所が使われていた。つまり、翔はここに住んでいたと偽って金を借りていたのだ。
借金の名義を巡っての逃亡劇。そして、本籍を最後に俺の住所に変えることで、自分の痕跡を消した——そんな風にも見える。
サザエさんにもこんな話はない
「借金を背負った息子の本籍を、昔の男の家に移すなんて、サザエさんでもやらないよな」俺は苦笑いしながらつぶやいた。波平さんなら、間違いなく「バカモン!」と怒鳴っていただろう。
とはいえ、麗子の狙いがなんであれ、結果として俺は巻き込まれただけだった。それにしても、運のない話だ。
やれやれ、、、また俺の休日が
本当なら今日はゆっくりプロ野球でも見ながら昼寝を決め込む予定だった。だが気づけば、役所や法務局と電話をしまくり、書類の山に囲まれている。
「やれやれ、、、」と、自然に口から出た。こんな日は、もうコーヒーを淹れてサトウさんに怒られないことを祈るしかない。
名義と住所の恐ろしい一致
俺の名義ではないのに、俺の住所。俺の知らない人間が、俺の空間に記録上だけ住んでいたというこの事実は、思った以上に気味が悪い。
司法書士としてではなく、一人の生活者として、何かが背中を撫でているような、不安な感覚が残っていた。
サトウさんのひらめきと最後の電話
「もしかして、麗子さんってこの『古い登記簿』に載ってる人と同一じゃないですか?」サトウさんが差し出した古い書類に目をやると、確かに名字と出生日が一致していた。
その瞬間、俺はすべてを理解した。彼女はかつて、俺に助けを求めてきたことがあった。だが、俺はそれに応えられなかった——それだけのことだった。
真実を語ったのは誰だったのか
彼女が何を思って息子の本籍を俺の住所にしたのか、本当のところはわからない。だが、俺に何かを託したのかもしれないという気はした。
それは贖罪か、復讐か、それとも最後の挨拶か。俺にとっては、ただ静かな風が吹くだけだった。
封筒の裏に残されたメッセージ
数日後、再び市役所から届いた封筒の裏に、小さな文字でこう書かれていた。「最後まで、助けを求めたのは私でした」——差出人欄には記載がなかったが、麗子の筆跡だとすぐにわかった。
やれやれ、、、俺に何ができただろうか。いや、もう遅いか。コーヒーは冷めていた。