雨の朝に持ち込まれた依頼
午前九時。雨音とともに開いた事務所のドアから、黒い傘と深い事情を抱えた女性が現れた。封筒を差し出すその手はわずかに震えていたが、目は据わっていた。
「これ、父の遺言書なんですけど、ちょっとおかしい気がして」
そう言って差し出された封筒を見て、僕はため息をついた。雨の日の依頼は、だいたいロクなことがない。
封筒の中の遺言書と奇妙な一文
中に入っていたのはA4一枚の遺言書と、もう一枚、走り書きのメモのような紙。「許してくれ、Mへ」とだけ書かれていた。
「この“M”って誰だと思います?」と依頼人が聞くが、答えられるはずもない。
気になったのは遺言書の署名だった。あの人、こんな字だったか……?
依頼人は元カノの姉だった
名乗られた名字に既視感があったのも無理はない。依頼人は、かつて付き合っていた彼女の姉だった。
ややこしい人間関係は避けたいのが本音だったが、もう封筒を開けてしまったからには後には引けない。
「あなたがシンドウさんね。妹から聞いてた通りだわ。鈍感だけど、最後には役に立つって」
サインの違和感に気づいたのは
最初に違和感を口にしたのはサトウさんだった。僕よりも早く筆跡の微妙な揺らぎを指摘した。
「これ、たぶん本人が書いたものじゃないですね。癖が違います」
いつものことながら彼女の観察眼には頭が下がる。だが、そこには司法書士としての責任がのしかかる。
筆跡と印影の微妙なズレ
署名に続く実印も、どこか不自然だった。朱肉の乗り方が浅く、紙にしっかりと押された印象がない。
素人が偽造したというより、どこかプロの手を感じさせるズレ。しかも、微妙に古いタイプの印鑑。
こういうところだけ、ルパン三世の銭形警部ばりに勘が働く自分が恨めしい。
サトウさんの冷静な指摘
「名前を書いたのが本人じゃないなら、この遺言書自体が無効ですよね」
あっさり言い切るサトウさんの冷たさが、むしろ頼もしく感じる瞬間だった。
だがそれ以上に、問題は“なぜそんな偽造が必要だったのか”という点にあった。
過去の恋と現在の駆け引き
調査の過程で、かつての彼女――依頼人の妹から突然LINEが届いた。
「久しぶり、元気?」という軽い挨拶の裏に、何か焦りのようなものが滲んでいる。
この手の連絡が来るときは、決まって何か裏がある。サザエさんの波平が穏やかに怒るときのような不穏さがある。
旧友からの突然のLINE
彼女は昔から、恋愛も家族もまとめて駆け引きの材料にするようなタイプだった。
「お姉ちゃん、変なこと言ってない? 遺言書なんて、もうほっとけばいいのに」
その言葉が、逆にこの遺言書の重みを増した。
封印した記憶と再燃する感情
記憶の奥から、彼女と最後に交わした会話が蘇る。「もし私が死んだら、父の財産、全部お姉ちゃんにあげて」
それが冗談だったのか、本気だったのか。わからないまま記憶の引き出しにしまい込んでいた。
やれやれ、、、思い出はいつも厄介だ。
不動産登記と名前の矛盾
父の名義で登記された不動産が一件、なぜか相続登記がされていなかった。
しかも登記簿には、既に亡くなっているはずの「第三の名」が残っていた。
これはうっかりではなく、意図的なものだ。ここでようやく、僕は事件の本質に触れた気がした。
登記簿に記された第三の名
その名前は、父の初婚相手――つまり依頼人たちの“母ではない女性”の名だった。
離婚の際、登記変更をしなかったのか、それとも意図的に放置したのか。
司法書士としての勘が、どす黒い何かを告げていた。
謄本に隠されたもう一つの手紙
法務局から取り寄せた閉鎖謄本の片隅に、古い訂正印が残っていた。
手書きの余白には「このままにしておくこと、約束します」の一文。
その筆跡は、遺言書のものと酷似していた。
やれやれ、、、雨は止まない
事務所に戻ると、サトウさんが傘立ての掃除をしていた。雨は止んでいない。
「で、今回も恋と謎と金の話だったわけですね」
そう言ってコーヒーを差し出す彼女の手は、やはり頼もしい。
喫茶店のカウンターでの偶然
事件が一段落して立ち寄った喫茶店で、彼女と再会した。
「いろいろあったけど、うちの家族、ちょっとマシになったかも」
彼女のその言葉が、本当の“解決”だったのかもしれない。
サインミスか意図的な偽筆か
今回のサインミスは、誰かを守るためのものだった。
法的には無効でも、人間関係の中で果たす役割は別だ。
そして僕は、また一つ“割り切れなさ”と向き合うことになった。
事件の鍵は誰が握っているのか
鍵を握っていたのは、たった一人の女性の覚悟だった。
過去を守るため、未来を壊さないための偽りのサイン。
書かれた一文字が、それだけの重みを持っていた。
姉妹の相続を巡る争い
争いは結局、形式ではなく「納得できるかどうか」で決まる。
法では割り切れない部分を、僕たちは埋めるしかない。
それが司法書士の“余白の仕事”だ。
名前を書くその一瞬の罠
サインは、ただの署名ではない。その人の意思、その人の人生が込められる瞬間だ。
偽りの筆跡もまた、誰かの本気だったのかもしれない。
僕は次の依頼に向けて、またペンを握った。