不審な依頼人が訪ねてきた日
朝から雨だった。おまけにコーヒーをこぼして書類が台無しになり、気分も最低だった。そんなときに限って、ろくでもない依頼が舞い込む。 黒縁メガネの中年男が、土砂降りの中で傘もささずに事務所のドアを開けた。「土地の筆界が消えたんです」と、いきなり訳のわからないことを言うから、思わずサトウさんの顔を見たが、彼女は無言で書類整理を続けていた。
曖昧な土地の話
「うちの家と隣の家、境界がどこかわからなくなったんです」 「それで?」としか言いようがなかった。正直、地方ではたまにある話だ。登記簿もあてにならないことが多い。だが、その男は何かを隠しているような目をしていた。 「測量しても、昔の杭が見つからないんです」と彼は言った。まるでそれが事件であるかのように。
図面と現実のずれ
図面を確認すると、たしかに筆界未定と赤字で記されていた。だが、その場所は住宅街のど真ん中。隣家との距離も狭く、争いごとが起きれば火花が散るのは目に見えていた。 「こういうの、昔サザエさんでも見たことあるな。波平が塀の位置で怒鳴ってたっけ」と呟くと、サトウさんが「だからって、境界線ごと消えるわけじゃないですよ」と冷たく返してきた。 やれやれ、、、口を開けばこの調子だ。
筆界未定という罠
土地の境界が未定だと、いろんな問題が発生する。売買も難しいし、建て替えだって一苦労。今回の依頼人も「家を売りたい」と言っていたが、その前に隣人と揉めているようだった。 「向こうは『うちの庭に塀を建てた』って怒ってるんです」と男は言った。塀ができたのは半年前。にもかかわらず、法務局への相談は一週間前だという。何か、時間の流れがおかしい。
登記簿にない境界線
古い登記簿を見ると、たしかに現在の塀の位置とズレがある。ただし微妙な誤差だった。昔の測量の精度が低かったのか、それとも…。 不審なのは、依頼人の隣家の持ち主が五年前に亡くなっていたことだった。その後、相続登記は放置され、今も名義は故人のままだった。
隣人同士の争いの記録
近所で話を聞くと、「あの家、前にも騒ぎがあったよ。塀を壊したり作ったり」と噂話が出てくる。 どうやらこの家の境界を巡っては、何年も前から小さな争いが繰り返されていたらしい。しかも、不自然に境界杭が何度も抜かれているという情報もあった。
私道か他人地か
調べていくうちに、もう一つ妙な点が見つかった。家の裏手にある細い通路が、実は誰の名義でもなかったのだ。 固定資産税も払われておらず、登記上は白地。つまり、筆界未定どころか、法的に「どこにも属さない土地」が存在していた。
鍵を握る古い境界標
翌日、現地を再訪し、古い境界標を探していると、地面にわずかに残るコンクリ片のようなものを見つけた。金属片が埋まっており、そこには「S43」と読める文字。 昭和43年に測量されたものだろう。位置的には、現在の塀の下。つまり、現在の塀は意図的に、境界をまたいで建てられている可能性があった。
測量士の不可解な沈黙
依頼人の紹介で測量を担当した人物にも会ったが、どこか歯切れが悪い。「現場で杭が見つからなかったんでね」と言いながら、何度も目をそらした。 後からわかったが、その測量士、以前にも数件トラブルを起こしていた人物だった。資格は失効寸前で、今回もギリギリだったらしい。
消えた測量図面
古い地積測量図が法務局から閲覧できなくなっていた。理由を問い合わせると「紛失した可能性がある」とのこと。 そんなはずはない。測量図は基本的に永年保存のはず。誰かが意図的に引き出したか、破棄したのではと疑念が強まった。
法務局での意外な手がかり
サトウさんが「ここのファイル、番号ズレてます」と小声で言った。確認すると、地番の整理番号が一つ飛んでいた。 隣の土地の測量図面だけ、ファイルごと消えていたのだ。サトウさんはすぐに「これ、抜かれてますね」と言い切った。
過去の分筆と現在の影
さらに調べると、昭和の終わりごろ、今回の土地は一度分筆されていたことが判明した。その際、間に挟まれた土地が仮登記のまま処理されておらず、いつしか筆界未定となった。 その土地を、依頼人が密かに使っていた可能性が高かった。
サトウさんの直感
「この人、土地売る気なんて最初からないですよ。自分の敷地を増やして確定させたいだけです」 そう言って、サトウさんは机の上にポンと資料を置いた。そこには、依頼人が最近建てた塀の施工業者とのメールが印刷されていた。 日付は測量の一か月前。つまり、塀の位置を境界に見せかける工作だった。
境界より深い動機
「実は、向こうの家に遺産があったんですよ」 故人の家には、まだ開けられていない貸金庫があり、その鍵の在りかも不明のまま放置されていた。依頼人は、その家の敷地を自分のものと見せかけ、いずれ相続を横取りするつもりだった可能性がある。 それを確定させるには、境界の操作が必要だったのだ。
もう一つの土地の名義人
最後のピースは、未登記の通路だった。実はそこが、故人が生前に取得していた土地だったことがわかる。 古い売買契約書が残されており、法的には相続人に受け継がれている状態。だが、相続登記が未了だったため、依頼人は「自分の土地のように」扱えると思っていたのだ。
暴かれた真相
「これ、完全に意図的な筆界操作ですね」 資料を整理した私は、依頼人に連絡を入れたが、すでに連絡が取れなくなっていた。後日、彼は別件で詐欺の容疑で逮捕された。どうやら他人名義の土地を担保に不動産ローンを組もうとしていたらしい。 やれやれ、、、やっぱりな、というしかなかった。
筆界と殺意の交差点
今回は命に関わるような事件ではなかったが、ほんの少し線がズレれば、きっともっと取り返しのつかないことになっていた。 筆界とは、ただの線ではない。人の欲と過去と、そして未来を決める「見えない刃」なのだ。
やれやれやっと線が引けた
「これで、境界の整理は完了です」 法務局に書類を提出し終えたあと、私は深いため息をついた。疲れがどっと出た。 「それにしても、やれやれ、、、ですね」と言ったら、サトウさんが「じゃあ次の案件いきましょう」と即答した。休む間もないのが、司法書士という職業らしい。