訪れた依頼人の沈黙
午前中最後の来客だった。背広に埃をまとった中年男性が、待合椅子に腰かけたまま無言でこちらを見ていた。 受付を済ませても名乗らない、話さない、ただ登記簿のコピーを机に置くだけだった。 「これは……昔の相続登記か?」と僕が呟くと、サトウさんが小さく眉をひそめた。
受付で交わされた不自然な視線
その男性とサトウさんが視線を交わした瞬間、何かが空気に走った気がした。 「この人、嘘をついてるかもしれません」とサトウさんが囁くように言った。 さすがサトウさん。受付業務の範疇を軽く飛び越えてくる。
サトウさんの即座の違和感
「相続関係説明図が添付されてないし、住所が今のものじゃありません」 その指摘にハッとして登記簿を見直すと、確かに昭和の頃の住所表記だった。 「もしかして、これ、改ざんされてませんか?」と彼女が真顔で言った。
古い相続登記の謎
登記簿には、昭和58年に亡くなった女性の名義が残っていた。 その後の名義変更もなければ、固定資産税も滞納なし。妙に手入れされている。 「この物件、今誰が使ってるんだろうな……」とつぶやくと、依頼人がふっと笑った。
昭和の名義人に隠された秘密
登記簿の所有者欄にある女性名義は、依頼人の「母親」だという。 だが、戸籍には母親の記録が途切れており、死亡届の記録も曖昧だった。 「母は……本当はいなかったことになっているんです」と彼は言った。
依頼書に潜む矛盾点
依頼書の筆跡が、添付された別の書類と微妙に違っていた。 「サザエさんで言えば、ノリスケさんが磯野家に勝手に住んでるような感じですね」とサトウさんが呟いた。 例えが不穏だが、確かに説明はつく。
消えた戸籍と真実の空白
本籍地の役所に確認を取ると、「除籍簿は既に廃棄済み」との回答があった。 「それにしても早すぎないか?」と僕は電話を握り直した。 廃棄には理由がある。だが、それは単なる偶然か、それとも誰かの意図か。
本籍地からの回答に違和感
役所の職員は、「よくあることですよ」と言いながら電話を切った。 だが僕は、その「よくある」が気になって仕方がなかった。 「やれやれ、、、これは簡単な登記相談じゃなさそうだな」と、つい漏らしてしまった。
改製原戸籍の中の不可解な断絶
古い改製原戸籍を取り寄せると、明らかに「空白の十年」が存在していた。 そこには、依頼人の父親の名だけがぽつんと記されていた。 母の名は、どこにもない。最初から、存在しなかったように。
田舎町に潜むもう一つの名前
現地の法務局に足を運ぶと、別の名義人の登記簿が見つかった。 それは、母親とされていた女性と同姓同名、同年齢の「別人」だった。 彼女は、十年前に土地を売却していた。その買主は……依頼人自身だった。
登記簿の片隅に見えた旧姓
「名字が変わってます。離婚か、改名ですね」とサトウさん。 旧姓を辿ると、全く別の戸籍が浮かび上がってきた。 それは、依頼人と法的には無関係の女性だった。
サザエさん一家ならぬ複雑な家系
家系図を並べてみると、波平さんが実は別の家庭を持っていたくらいにややこしい。 依頼人は知らぬ間に、母と思っていた女性に「養子縁組」されていた形跡がある。 「つまり、相続人じゃないってことですか?」と彼が顔を曇らせた。
一枚の地図が語る動機
古地図と現在の住宅地図を重ね合わせてみると、ある矛盾が浮かび上がった。 本来の敷地は分筆され、新築住宅が建っていた。 しかもその名義人は、依頼人の実の兄だった。
取り壊された家の隣に建つ新築住宅
「こっちはもう兄の名義です。登記簿も真っ白です」 サトウさんが無表情で言うが、その目には確かな怒りが宿っていた。 どうやら兄は、母の存在を消すために登記の名義を隠していたらしい。
なぜか名義が移っていた資産
確認すると、数年前に贈与登記が行われていた。 だが贈与者は故人のはずの「母」だった。 つまり、その登記は偽造だった可能性が高い。
サトウさんの冷静な分析
「司法書士が騙されたふりをしてたなら、完全な共犯です」 僕は頭を抱えた。そんな不名誉な記録、法務局に残されたらたまったものじゃない。 「それ、僕じゃないよな……?」と念のため確認したが、サトウさんは答えなかった。
「もしかして、これは相続ではなく、、、」
「財産隠しのための擬制登記です。しかも複数回」 その分析に、依頼人も沈黙を守ったままだった。 「話してくれませんか」と促すと、彼はついに口を開いた。
やれやれ僕の出番か
現地の法務局で、過去の申請書副本を閲覧した。 筆跡、住所、提出日時——すべてが不自然な形で一致していた。 「この署名、あなたじゃないですね?」と僕は静かに言った。
現地調査で見た遺影の裏に書かれた名前
依頼人の実家の仏壇の奥から、一枚の遺影が出てきた。 その裏には、「私の死は秘密にして」と走り書きがあった。 筆跡は、登記の贈与書類と同じだった。
真実を語った遺言書のコピー
「全財産は長男に」——その一文は、旧民法の言い回しそのままだった。 だが、封筒の裏には別の筆跡で、「これは嘘」と殴り書きされていた。 それは、登記を依頼した女性のものではなかった。
封筒に残された別の筆跡
筆跡鑑定を依頼すると、「本人のものではない」と明確に断定された。 依頼人は真実を知っていたが、それを隠して登記変更を望んだ。 だが、僕たちは真実を隠す職業ではない。
最後に告白された一通の手紙
帰り際、依頼人が小さな封筒を差し出した。 「母は、戸籍を捨ててまで僕を守ろうとした。でも僕は……それを利用した」 声が震えていた。
依頼人の沈黙の理由
守られた記録の裏に、壊れた家族の姿があった。 彼は登記の変更ではなく、贖罪のためにここに来たのだろう。 「やり直せると思ってたんです。けど、それも……遅かった」
名義の裏にあった悲しき家族の事情
登記簿に記された名は、確かに法律上のものだった。 だが、その名の重みを、紙一枚で裁くことはできない。 帰り道、僕はサトウさんに言った。「司法書士ってのも、業が深いよな」