登記簿が導いた忘れられた遺言
ある雨の午後、事務所のドアが軋む音とともに開いた。ずぶ濡れの男が一枚の封筒を差し出してきた。「亡くなった父の遺言が見つからないんです」と。目を伏せたその声には、確かな切実さがあった。
封筒には、古びた固定資産税の通知と、古い登記事項証明書が入っていた。私はその書類を一目見るなり、奇妙な既視感を覚えた。だがそれが何か、すぐには思い出せなかった。
雨の日に持ち込まれた一本の古い書類
依頼人が語るには、父は数年前に亡くなり、相続手続きを進めようとしたところで妙なことに気づいたらしい。「戸籍上、長男だった兄の名前がどこにもないんです」。
私は封筒から出てきた古い登記事項証明書に注目した。平成初期の筆跡で記載された内容は、明らかに現在のデジタル化された書式とは異なる。まるで手書きの謎解きが始まったかのようだった。
誰にも気づかれなかった古い名義
登記簿の内容を精査していくうちに、昭和四十年代に一度名義変更され、その後すぐにまた別の名義に戻っていたことが分かった。しかも、それは親族とは思えない人物名だった。
不自然すぎる所有権の移動。しかも、登記の内容が訂正されたような跡もある。私は背筋にうっすらと寒気を覚えた。これは単なるミスではない。
戸籍から消えた長男の存在
依頼人の話では、兄は小学生のころに「親戚の家で暮らす」と言って突然転校していったきり、音信不通になったという。そしてその後、家族の話にもほとんど出なくなった。
戸籍を追っても兄の記録はまるで最初から存在しなかったかのように消えていた。まるで探偵漫画で「黒塗り」にされたページのような不可解さ。私はサトウさんに目配せした。
養子縁組の謎と破棄された記録
手がかりは一つ。古い戸籍謄本の端に「養子縁組取消し」の記載がかすかに残っていた。しかも、数ヶ月後には再度別の家庭に入籍されていた。
どうやら、長男は幼い頃に家庭の事情で戸籍から抜かれたようだった。そしてその事実は、家族の中でも一部しか知られていなかった。やれやれ、、、こじれた家庭ほど複雑だ。
不動産に潜む過去の秘密
登記簿に戻ると、一つだけ記録されていない土地の区画が目にとまった。記載漏れか、意図的な隠蔽か。私は地積測量図を確認したが、記録と現況が一致しない。
昭和時代の登記は、手書きで書き換えられることも多かった。その結果、土地の一部が記録から「消えた」可能性もある。だが、それが偶然とは思えなかった。
謄本に残る昭和の名残
手元に残った昭和四十八年の謄本のコピー。そこには、確かに兄と思しき人物の名前が一時的に所有者として記録されていた。しかも、その日付は養子縁組の取り消しと一致していた。
サザエさん一家だったら、ここで波平あたりが「そういうことはちゃんと言っておかんか」と一喝して円満解決だろうが、現実はそうもいかない。記録は無言で、けれども真実を語っていた。
サトウさんの冷静な分析
「この欄、おかしいですね」とサトウさんが指差したのは、訂正の跡がある備考欄だった。古いインクのにじみと、後から書き足されたような筆跡の違いに私はハッとした。
「ここの字だけ違う字体です。たぶん後から誰かが追加したんでしょうね」。塩対応ながら、こういうときのサトウさんは頼もしい。私は彼女の推理を元に再度謄本を洗い直した。
手書きのメモに隠された違和感
古い相続税申告書の写しに、「長男は持分放棄済み」と走り書きされたメモが見つかった。だが、放棄に関する正式な書類は存在しない。これは、誰かの「作為的な事実」だった。
しかも筆跡は、依頼人の父親のものではなかった。つまり、意図的に兄の権利をなかったことにしようとした第三者がいるということだ。
シンドウのうっかりが突破口に
いつものように書類を出し忘れていた私は、数日前に法務局に送るべき資料を間違えて別の登記官に提出してしまった。後日、「こんな資料が出てきたよ」と連絡が来た。
見ると、それは昭和五十年代に一度だけ申請された所有権移転登記の原本だった。そしてそこには、戸籍から消えた長男の自筆の署名と拇印が、はっきりと残っていた。
そこに記された驚きの記載
「兄にだけ相続させる」と書かれた遺言書の写しも見つかった。日付は死亡の数日前。その後、書き換えられた可能性もあるが、これは有効とみなされる可能性が高い。
私は思わず息を呑んだ。ここまで来て、真実はようやく姿を見せ始めた。まるで名探偵コ○ンがクライマックスで「真実はいつもひとつ」と言うような瞬間だった。
真実をつなぐ登記簿の力
兄は確かに存在していた。遺言も書かれていた。戸籍からは消えていても、登記簿の中には彼の痕跡が残っていた。司法書士にとって登記は「事実の化石」なのだ。
この事実をもって、依頼人と兄の再会が現実のものとなるかはわからない。だが、少なくとも「なかったことにされた人生」が、再び表舞台に戻る日は来る。
遺言に込められた最後の願い
遺言には、「これまでのことはすべて水に流してくれ」とだけ記されていた。あまりにもあっけない文章だったが、その重みは十分すぎるほど感じ取れた。
依頼人はしばらく無言でそれを読み、やがて「会いに行ってみます」とだけつぶやいた。その顔には、ほのかな決意が宿っていた。
やれやれ事件はやっぱり書類の中に
日が暮れた事務所で、私は背中を椅子に預けながら一息ついた。やれやれ、、、今日も紙の山から一つ、人の人生が掘り起こされた。
机の上には、古い謄本と一杯の冷めたコーヒー。シンドウ探偵団、今日も地味に勝利である。
全てが落ち着いたあとの日常
翌朝、サトウさんはいつもどおり定時に出勤してきた。「あの件、完了ですか?」と淡々と聞いてきたその口調は、事件のドラマ性など一切おかまいなしだった。
「まあな」とだけ答えると、彼女は「じゃあ次の相続放棄の案件、急ぎです」と言って書類を机に置いて去っていった。今日もいつもと同じ、でも少しだけ、心が軽い。