朝の事務所と届いた封書
八月の朝は暑さと湿気が皮膚にまとわりつく。事務所の古いエアコンがうなり声を上げている中、机の上にぽつんと置かれた一通の封筒が目に入った。差出人は見知らぬ名前だったが、何か妙に引っかかるものがあった。
「これ、昨日の夕方に投函されてました」とサトウさんが言う。その声は冷えた缶コーヒーのように無機質で、こちらの体温だけを無駄に奪っていく。
封を開けると、中には登記簿謄本の写しと申請書が入っていた。だが、そこには重大な欠落があった。
サトウさんの無言と冷たい目線
サトウさんは黙ったまま書類をのぞき込み、一言だけつぶやいた。「空欄、多いですね」。それだけで、こちらの責任を半分ぐらい負わされた気がするのはなぜだ。
「……まぁ、申請人が書き忘れただけかもしれないし」と言い訳めいたことを口にしてみたが、サトウさんの視線は冷蔵庫の裏に落ちたゴキブリを見るようだった。
やれやれ、、、今日は厄介な一日になりそうだ。
登記簿の申請書に空白の一欄
通常であれば、「登記の目的」「権利者」「義務者」欄は丁寧に埋められているものだ。だがこの書類には、肝心の義務者欄が空白になっていた。
しかも、その上にうっすらと何かを消したような跡がある。消しゴムではなく、白い修正テープの跡だ。司法書士としての勘が働く。これは、単なるミスではない。
何か、見せたくない名前がそこにあったはずだ。
所有者欄に書かれなかった名前
所有者欄には、依頼人とされる老女の名前があった。だが、気になるのはその「取得原因」の欄。「贈与」とだけ書かれ、贈与者の記載が抜けていた。
これでは法務局で受付されない。だが、それよりも――これは、意図的な隠蔽のにおいがする。
「贈与者が書けない理由、調べてみる価値はありそうですね」とサトウさんがつぶやいた。
依頼人の不可解な態度
老女――依頼人の中村ミツさんは、杖をつきながら事務所を訪れた。話す言葉は丁寧で、こちらに対して礼儀正しかった。
だが、登記内容について説明を求めると急に口ごもり、「もう忘れてしまって……」と曖昧な返事を繰り返すばかりだった。
嘘をついているというより、真実を語ることを避けている。そういう印象だった。
沈黙する高齢女性の背景
ミツさんは昔、地元で旅館を経営していたことがあるという。その物件が、今回の登記対象の土地だった。
旅館は火事で焼失し、その後売却された――というのが地元新聞の記事だったが、実際の登記記録とは一致していない。火災のあと、名義はなぜかミツさんの名に戻っていた。
この違和感の説明がなされない限り、申請書は提出できない。
昔の登記記録に残る別人の痕跡
事務所に戻り、古い登記簿謄本を手繰る。昭和の記録には、ある男性の名が数年だけ所有者として登場していた。「石田誠」。この名が、その後まるで消しゴムで消されたかのように消えている。
移転原因も不明、権利証の発行履歴もない。不自然すぎる。
彼は誰だったのか。そして、なぜ名前を消したのか。
同じ地番に現れる謎の名義
土地台帳には「石田誠」の名が再び数年後に現れていた。つまり、一度手放した土地を取り戻した形跡がある。
だが、当時の取引記録も贈与記録も存在しない。つまり、名義変更が“裏”で行われた可能性が高い。
これはもう、司法書士というより探偵の仕事だった。
サザエさんと不動産相続の似た構図
ふと、サザエさんの「磯野家」事情が思い浮かぶ。あの家、波平名義なのかフネ名義なのか。タラちゃんに相続されるのか、ノリスケが権利を主張するのか――。
家族構成の複雑さがそのまま登記に反映されるのが現実世界だ。だとすれば、この登記簿の裏にもまた、複雑な家庭の事情があったのかもしれない。
「現実は漫画よりドロドロしてるんですよ」とサトウさんが言う。たしかに。
波平さんが家を建てた理由の裏側
昔、波平が家を建てたのは、磯野家を守るためだったと言われる。つまり、所有名義に「一家の覚悟」がある。
今回の事件もまた、名義の裏にある“意志”が隠れている気がしてならない。
その意志を無視して、登記は進められない。
やれやれ、、、また余計な仕事だ
調べれば調べるほど、泥沼に足を突っ込んでいる感覚になる。単に登記申請を手続きすればいい話ではなくなっていた。
だが、この仕事はそういうことが多い。名義というのは、紙の上だけの話じゃないのだ。
「司法書士って、案外ハードボイルドですね」とサトウさん。いや、それは違う。
古い資料に潜む違和感
ミツさんの旧姓を確認して、さらに驚く。なんと「石田」。つまり、石田誠は彼女の長男か、もしくは前夫の可能性が高い。
彼の名が消された理由、それは家族間の争いだったのではないか。
登記簿に書けない“家族の一言”が、そこにはあったのだ。
サトウさんが見つけた微妙な筆跡の違い
決定打となったのは、サトウさんの観察力だった。古い資料と申請書を並べ、「ここ、字が違いますよ」と指摘してきた。
申請書の署名、明らかに依頼人本人の筆跡ではない。
つまり、この申請書そのものが偽造の可能性がある。
土地名義と関係者の繋がり
話はすべて繋がった。名義変更を隠すために、関係者の誰かが勝手に申請書を作成し、依頼人になりすましたのだ。
しかもその理由は――過去の相続放棄と家庭内トラブルにあった。
「誰かが、忘れてもらいたかったんでしょうね」と、サトウさん。
過去の贈与契約と消された一文
実際には、石田誠から母親への“贈与”ではなく、“返還”だった。その証拠となる契約書もあったが、肝心の「理由」の一文だけが消されていた。
契約書は法的に有効だが、感情の部分はどうしようもない。
だからこそ、その一文は登記簿に書かれなかったのだ。
司法書士の立場で読み解く動機
動機はシンプルだった。「過去をなかったことにしたい」。それだけだ。
でも、それを公的な書類で実現してはいけない。それが司法書士の責任でもある。
僕は申請書を返送し、すべてを白紙に戻すことにした。
隠された認知と表に出せない相続人
後日、ミツさんから手紙が届いた。「あの子には、あの家を持たせてあげたかった。でも、うまくいかなかった」。それは、登記簿には載らない気持ちだった。
この手紙もまた、どこにも記録されることはない。
だが、僕は司法書士として、それを心の中で受け止めた。
登記に現れない真の家族構成
家族とは、制度では測れない。登記簿に名前があろうとなかろうと、それぞれの関係性は確かにそこにある。
だからこそ、司法書士の仕事は機械的であってはならないと思う。
それを、あの空白が教えてくれた。
封印された一筆の正体
誰もが何かしらの「書けない一言」を抱えて生きている。そして、それは時に紙一枚ににじみ出る。
今回の事件は、そうした人間の曖昧で、だけど確かな感情が起こしたものだった。
「やれやれ、、、またひとつ、人の心の重さを知った気がします」と呟きながら、僕はファイルを棚に戻した。
それは登記簿に書けない真実だった
記録されなかった言葉、記載されなかった名前、封印された一筆。すべてが登記簿の外にあった。
でも、それを見落とさないこと――それが、僕の仕事だ。
そして今日も、また新たな封筒がポストに届いていた。