登記簿に隠された取引

登記簿に隠された取引

登記簿に隠された取引

八月の蒸し暑い朝だった。事務所の扉を開けた瞬間、重たい空気と同時に一人の女性が飛び込んできた。腕には分厚い封筒、目は明らかに怯えていた。

「すみません、助けてください。父の家が、知らない人に勝手に売られているんです」と彼女は言った。そこには、一通の登記簿謄本があった。

僕はコーヒーに手を伸ばしながら、封筒の中身を眺めた。なんだか、今日は面倒な日になりそうだった。

午前九時の依頼人

その女性――依頼人の名前は田辺美咲。亡くなった父の不動産について、全く身に覚えのない「売買契約書」が登記簿に反映されていたという。しかも、その日付は父の死亡日の直後。

ありえない。亡くなった人が契約するわけがない。だが、登記は確かに完了している。司法書士の職業柄、こういう胡散臭い話は何度も聞いてきた。

「とりあえず、事情聴取と現地調査から始めましょう」僕は重たい腰を上げる。

売買か贈与かの曖昧な線

書類を見る限り、「売買」と書かれているが、実質は「贈与」のようにも読める。対価は10万円。不動産の価値に対してあまりにも安すぎる。

これでは典型的な仮装譲渡だ。だが、形式的には契約が成立している体裁になっている。ここから法の網をくぐった誰かの仕業だとわかる。

そんな時、サトウさんが無言でコーヒーを机に置いた。言葉はないが、「早くやれ」と背中を押された気がした。

古びた建物と名義の謎

現地は、古びた二階建ての木造住宅だった。周囲の家々とは違い、人の気配が感じられなかったが、郵便受けには新しいチラシが入っていた。

「最近まで誰かが住んでいた可能性がありますね」とサトウさんが言った。彼女は相変わらず冷静だが、目の動きは獲物を追う猫のようだった。

玄関脇のポストには、宛名に“田辺信一”とある郵便物。それは依頼人の父の名前だった。

現地調査で見えた違和感

不審に思いながら周囲を歩いていると、裏口が少し開いているのに気づいた。無人のはずの建物。だが、なぜか中には冷たい缶ビールがあった。

「これは完全にアウトですね」とサトウさん。無断占有の可能性がある。住んでいるのが誰なのか、何の権限でここにいるのか。調べる必要がある。

まるで、サザエさんのエンディングで波平がタマを追って庭中走り回るような、そんな無力感が僕を襲った。

住んでいないはずの住人

後日、近所の住民に話を聞いた。「ああ、若い男が最近引っ越してきたよ。夜中に変な荷物を運んでたな」とのこと。

どうやら、偽名を使い他人の不動産に住み着いている輩がいるらしい。登記簿の名義人は確かに“佐伯健人”。この男がカギを握っている。

そして、この“佐伯”の住所が、どこかで見たことのあるものであることに気づいた。

遺言書に記されたもう一つの真実

依頼人の持つ遺言書を再確認すると、「自宅の土地建物は、娘の美咲に相続させる」とはっきり書かれていた。しかも、それは公正証書遺言だった。

だが、問題の登記はその後に行われている。普通は相続登記が先に来るはずだ。つまり、何かが「先に仕組まれていた」可能性が高い。

もう一度、僕は遺言書の日付と登記日を見比べた。そして、ある「不一致」に気づいた。

日付の不一致が意味するもの

遺言書の日付は死亡の5年前。しかし登記された契約書の日付は、死亡のわずか1日後。そして登記の申請が、その翌日。

司法書士として言うなら、これは“意図的なスピード登記”だ。普通の感覚なら、死亡届も出さずに登記申請はしない。

つまり、誰かが“死を待っていた”可能性がある。あまりにも黒い。

筆跡鑑定で浮かび上がる影

鑑定を依頼すると、契約書の署名は田辺信一のものではなかった。「模写されたものです」と専門家が言った。つまり、これは完全なる偽造契約書。

ここにきて、ようやく話が繋がってきた。佐伯健人――彼が全ての黒幕である可能性が高まった。

僕は即座に、法務局と警察に連絡を入れた。

司法書士会館での調査

「それ、ウチの事務所の名前使われてますよ」司法書士会館で話を聞いたある同業者が、眉をひそめて言った。

どうやら、偽造された契約書には、存在しない司法書士の名前と捺印があったらしい。完全ななりすまし。

「やれやれ、、、」と僕は天を仰いだ。まるで名探偵コ○ンの世界だ。けど現実は、もっと地味でやっかいだ。

登記官との密談

法務局の登記官と話すと、登記に不審な点があったことは把握していたらしい。「でも、書類が揃っていれば受理するしかないんですよね」と苦笑い。

つまり、書類の整合性だけで成立する登記制度の盲点を突かれたのだ。制度に穴がある限り、こうした事件は繰り返される。

僕たち司法書士が見張る意味が、ここにある。

消された仮登記の理由

さらに調べると、この物件には過去に“仮登記”が設定されていたが、なぜか数ヶ月前に抹消されていた。

仮登記の目的は所有権移転の予約。しかし、それが抹消されているということは、何かの工作があったのだ。

誰が、何の目的でそれを消したのか――それも、佐伯だった。

サトウさんの鋭い一言

「この人、健康保険証の住所が違いますね」サトウさんが一言つぶやいた。それは、法的手続き上では決定的な矛盾だった。

公的書類上の住所と住民票上の住所が違う。それを元に、佐伯が“なりすまし”をしていた証拠が確定した。

まるで冷たい包丁で真ん中を一突きするような彼女の指摘に、僕は密かに感心した。

法務局に残された控えが鍵

最後の決め手は、法務局に残っていた原本還付の控えだった。それには、佐伯が提出した“本人確認書類”のコピーが添付されていた。

それが、依頼人の父のものではなく、微妙に改変された偽造書類であることが確認された。

ここにきて、ようやく全てのピースが揃った。

カルテに書かれた住所の矛盾

美咲さんが父の通っていた病院のカルテを調べると、最後まで「自宅療養中」の住所は依然として問題の物件だった。

つまり、彼は最期までそこに住んでいたのに、なぜか生前の売却契約書が存在する。この矛盾が、事件の核心だった。

カルテの記載が証拠となり、佐伯は完全に追い詰められた。

犯人が語った動機と計画

「死にかけの老人が住んでた家なんて、誰も気にしねぇと思ったんだよ」そう語った佐伯は、悪びれる様子もなかった。

彼は数年前から、独居老人の家を狙い、死後すぐに契約書を偽造するという手口を繰り返していた。今回の件も、その一環だった。

ただ、今回は司法書士と、その助手の目が光っていた。

不動産を巡る家族の争い

「父は、私には一言も家のことを話してくれなかったんです」と、美咲さんは少し寂しげに笑った。

争うほどの財産でもない。しかし、それでも人の心には隙が生まれる。そこを突くのが、今回の犯人のような連中なのだ。

僕はただ、淡々と登記を元に戻す準備を始めた。

優しさが生んだ偽装工作

実は、田辺信一が亡くなる前、近所の佐伯に家を預けていたことが、後日わかった。孤独の中にある人の、微かな“優しさ”が招いた悲劇だった。

その優しさを悪用する人間がいる限り、僕らの仕事は終わらない。

僕はふう、と深く息を吐いた。

解決とその後の日常

事件は解決し、不動産の名義も元に戻った。美咲さんは少しだけ涙をこぼしながら、「父の家、ちゃんと守ります」と言った。

その言葉に、僕は少しだけ報われた気がした。だが、事務所に戻ると、机の上には新しい登記申請の書類が山積みになっていた。

やれやれ、、、コーヒーを飲む暇もない。

書類の山と冷たい缶コーヒー

机の上の缶コーヒーは、すっかりぬるくなっていた。気づけばサトウさんは、すでに次の依頼人の対応を始めている。

「次の人、午前中でお願いできます?」とだけ言い残し、彼女は電話対応に戻った。

僕は一口だけ、ぬるいコーヒーを飲んだ。これが僕の、今日という一日の味だった。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓