失踪届のその日
役所に提出された一通の失踪届。それは、ある家族の静かな崩壊の始まりだった。依頼者は中年の女性で、言葉少なに「父が数年前から行方不明なんです」と口にした。
彼女の視線はどこか虚ろで、目の奥に張り付いた不安と諦めが、事務所の空気を重くする。俺は、やれやれ、、、と心の中でつぶやいた。まるでサザエさんの波平が家族会議でうんざりするような気配だった。
だが、今回の依頼には妙な引っかかりがあった。登記簿の調査が鍵を握っているような気がしてならなかった。
依頼人の顔に浮かぶ影
彼女が提出した戸籍謄本には不自然な空白があった。ある時期から父の記録が突然とぎれている。普通の失踪とは違う、何か意図的に消された痕跡を感じた。
「父は土地を持っていました。昔、農地をいくつか…」彼女はかすれる声で言った。俺の中で、司法書士としての職業的嗅覚がピリリと反応した。
土地と登記、それに失踪。これはただの家出じゃない。もっと深い何かがある。
調査のきっかけは旧い地図だった
事務所の書棚から、旧市街の地図を引っ張り出した。そこには今では存在しない細い路地と、謎の番地が記されていた。
その場所こそ、依頼者の父が最後に姿を見せたという場所。俺はサトウさんに指示し、登記情報の過去データをあたってもらった。
「…ここの地番、今と違いますね。過去に分筆されてます」と淡々と彼女は告げた。冷静な声だが、すでに核心に迫っていることを感じた。
消えた父の名義
謄本を見れば一目瞭然だった。父親名義だった土地が、ある年を境に別人に移転していた。しかも、その相手は親族ではない。
売買ではなく贈与。つまり、金銭の授受が発生していない。だが登記上は法的に問題ない。そう、表面上は。
だが、俺の中にぬぐえない違和感が残る。この登記、何かを隠すために使われたのではないか。
登記簿に残された過去の名前
さらに遡ると、父親がその土地を手に入れた経緯も不可解だった。相続ではなく、ある法人からの譲渡だった。
その法人はすでに解散しており、詳細は追えない。だが代表者の名前に見覚えがあった。市内の旧家で、かつて脱税で話題になった一族だ。
まさかとは思いつつも、俺は調査の手を止めなかった。
古い抵当権に潜む謎
登記簿には抹消されていない古い抵当権が残っていた。昭和の終わりに設定されたまま、今に至る。
その債権者も今は亡き人物で、保証人には依頼者の父親の名前がある。つまり、父親は何らかの借金に巻き込まれていた可能性がある。
それが失踪と関係していないとは、どうしても思えなかった。
空家に残された手帳
現地調査のため、俺とサトウさんは旧い家屋を訪れた。鍵はかかっていたが、隣人の了解を得て中に入る。
埃をかぶった室内に、異様なほど整然とした空気が漂っていた。人が消えた形跡がない。あまりにも突然の失踪。
その中で、書斎の引き出しに一冊の手帳が残されていた。
手帳に記された不可解なイニシャル
「T.K.との約束は守った」「K.S.に渡してある」など、実名を避けた記述が続く手帳。
イニシャルだけでは何も分からないが、地番や地目に関する記載も多く、土地の譲渡と何らかの密約があったと考えるのが自然だった。
「これ、消された過去に繋がるかもしれませんね」サトウさんが呟く。珍しく口調に熱がこもっていた。
錆びた南京錠と破られた封筒
納屋の隅に、南京錠で封じられた木箱があった。鍵はなかったが、工具でこじ開けると中には複数の書類が。
破られた封筒には「遺言」と記されていた。正式な遺言書ではないが、父親の筆跡とされる内容が記されていた。
そこには「すべての責任は私にある」とだけ、書かれていた。
サトウさんの推理
「これ、登記の移転は偽装ですね」とサトウさんは言い放った。彼女の言葉に一瞬、耳を疑った。
「つまり、贈与のように見せかけて、実際は父親が誰かに脅されていた。土地を明け渡すために演技した可能性がある」
俺は呆然としながらも、彼女の推理にうなずくしかなかった。
意外な人物の登記関与
贈与を受けた人物が、なんと市内の司法書士だった。今は廃業しているが、過去に多くの不動産案件を扱っていた。
つまり、司法書士が事件の当事者であり、父親に無理やり登記をさせた可能性がある。いや、強制というより、恐喝かもしれない。
「悪い司法書士ってのは、本当にいるんですね…」サトウさんの言葉が重く響いた。
誤記か故意か登記内容の矛盾
日付のずれ、筆跡の差異、そして法務局の受付番号。どれを取っても不自然だった。
通常ではあり得ない記載があちこちにあり、最初の登録から偽装だった可能性が濃厚となった。
俺は、重い口を開いた。「これはもう、警察に行こう」
事件の顛末とその代償
調査報告と証拠を携え、依頼人とともに警察へ。結果、司法書士はすでに他の案件でも摘発されており、余罪として立件されることになった。
依頼者の父親は亡くなっていたが、その死も疑惑の中で再調査の対象となる。
「やるせないですね…」と依頼者がつぶやいた。俺には何も返す言葉がなかった。
残された家と残されなかった想い
土地は最終的に相続人である依頼者へ戻されたが、失われた時間と信頼は戻らない。
家は空のまま、ただ風だけが吹き抜けていた。遺言書の言葉が胸を締めつける。
「すべての責任は私にある」――あれが、父の本心だったのか。
法律が裁けない罪とは
登記は正しくされていた。書類上は整っている。だが、人の心の中の闇や、追い詰められた末の選択までは、法律は裁けない。
「俺たち司法書士は、法律の外にあるものに気づくべきなのかもしれないな」
そう呟いた俺に、サトウさんは一言だけ、「気づく前にちゃんと調べてください」と冷たく返した。
日常へ戻る事務所の午後
依頼者を見送ったあと、事務所にはいつもの静けさが戻った。カーテンの隙間から午後の陽が差し込み、俺の机に落ちる。
「やれやれ、、、また書類が山積みだ」俺は苦笑しながら山のような登記申請書類に手を伸ばした。
その向こうで、サトウさんがコーヒーを入れながら呟く。「いつになったら普通の案件になるんでしょうね」
サトウさんの冷たい視線の意味
ふと顔を上げると、サトウさんの視線がこちらを貫いていた。あの目は、「次はミスしないでくださいね」という無言の圧だ。
「え、何かしたっけ?」と俺が尋ねると、「いえ、いつも通りです」と塩対応が返ってきた。
今日も俺は、事務所の片隅で、誰にも褒められない戦いを続けている。