登記簿に残された名前
午前九時、コーヒーの香りも漂わぬまま、依頼人が事務所にやってきた。手に持っていたのは古びた登記事項証明書と遺言書のコピー。 「父の名が記された土地の登記簿が、なぜか赤の他人のものになっているんです」と彼は言った。シンドウは思わず書類を二度見した。 司法書士としてのキャリアはそれなりに長いが、この手の「父の土地が知らない誰か名義」案件は、妙にやっかいだ。
依頼人が抱える不可解な遺言
遺言書には「すべての財産を長男に相続させる」と記されていた。問題は、その長男が相続登記をせずに十年以上が過ぎていたこと。 その間に何が起きたのか。登記簿には、見知らぬ第三者の名前が名義人として残されていた。 「この“加賀谷”って人、誰なんでしょう?」依頼人の問いに、サトウさんが眉一つ動かさず言った。「本当に長男さん、ご存じないんですね」
古びた登記事項証明書に書かれた謎
紙の色はうっすら茶色く変色し、コピーもところどころ薄れていた。だがそこに記された“共同名義”の文字だけははっきりと読めた。 加賀谷と依頼人の父は、実は共有者だった。そして、なぜかその名義が一本化され、現在は加賀谷単独名義となっている。 「これ、合意のない持分移転です。だとしたら無効かもしれません」シンドウは、声を潜めてつぶやいた。
不審な相続人の登場
調べを進めるうちに、“加賀谷”が最近になって土地を第三者に売却していたことがわかった。名義変更はされていないが、売買契約は結ばれている。 つまり、今の名義人は加賀谷であるが、実際の所有者はまた別人という、よくあるややこしい構図になっている。 「やれやれ、、、」と、思わず声が漏れた。こういうとき、だいたいトラブルが複雑化するのが常だ。
亡き父の名を語る男
訪ねてみると、加賀谷は既に亡くなっていた。しかし、その息子と名乗る男が現れ、「あの土地は父が買ったもんだ」と主張した。 だが、売買契約書も領収書も見つからない。出てきたのは、昭和時代の簡単なメモ書き程度のものだけ。 「これは、父同士の“口約束”で動いた可能性がありますね」と、サトウさんが冷たく言い放った。
本人確認資料の矛盾
登記簿の変更履歴にあった本人確認書類は、運転免許証のコピーだったが、生年月日が依頼人の父と一致しない。 つまり、誰かが“なりすまし”をして申請した可能性がある。これはもう、サザエさんでいうところのカツオの仕業レベルでは済まされない。 「でも、誰がそれをやったんですか?」依頼人の目が鋭くなる。「それを調べるのが我々の仕事です」とシンドウは言った。
サトウさんの冷静な推理
「この加賀谷さん、実印登録してたのは平成十四年まで。それ以降は途切れてますね」 データベースから引っ張ってきた住民票と印鑑証明を見比べ、サトウさんは何かに気づいたようだった。 「登記がされたのは平成十五年。これ、おかしいですよ」そう言うと、彼女はさらに過去の契約書を取り寄せた。
筆跡鑑定と過去の契約書
契約書には“加賀谷”の署名がある。しかし、十年前のものと比較すると筆跡が明らかに違っていた。 「偽造ですね」サトウさんの判断は早かった。そして恐ろしいほどに正確だった。 シンドウはうっかり紅茶をこぼしそうになりながら「えっ」と声を上げた。「…つまり誰かが書類を偽造して登記を進めたってこと?」
古い登記簿から導かれた真実
昭和五十年代の登記簿には、確かに“共有名義”が記されていた。そして、共有解除の記録は存在しない。 誰かが共有解除をしたように見せかけ、登記簿を“単独名義”に偽装していた。 その結果、依頼人の権利が抜け落ちていたのである。長年放置されたことが、逆に不正の温床になっていた。
シンドウのうっかりが導いた突破口
ファイル棚から登記関係の資料を取り出そうとしたとき、シンドウは手を滑らせ、別の案件ファイルを落としてしまった。 ところがそこに、依頼人の父と加賀谷の名前が並ぶ「地元消防団の名簿」が挟まっていた。 「この名簿、、、あのときの事件の?」思い出した。昔、町内で起きた土地売買トラブルで、シンドウが新人時代に関わった案件だった。
野球部時代の同期の関与
その事件に関わっていたのは、シンドウの高校時代の野球部仲間で、今は不動産業を営んでいる男だった。 連絡を取ると「昔の話だが、あの土地、確か揉めてたよ」と証言を得られた。しかも、彼が持っていた写真には、依頼人の父と加賀谷が仲良く映っていた。 「これが、約束の証拠になるかもしれませんね」とサトウさん。シンドウは珍しく彼女に褒められたような気がして、ちょっと照れた。
解き明かされる過去と遺言の意味
遺言にあった“すべての財産を長男に”という文言。その背景には、父が口約束で加賀谷と交換した土地のことが隠れていた。 つまり、依頼人の父は土地の「持分放棄」をしていたつもりだったが、登記上は正式に処理されていなかった。 その矛盾を見抜いたサトウさんの推理が、事件を解決へと導いた。
誰のための約束だったのか
依頼人は「父は誰かを信じすぎたんだと思います」と言った。サトウさんは「信頼と登記は別物ですから」と冷静に返した。 土地を守るには、登記という法的手続きを怠ってはいけない。今回の一件は、その教訓を如実に表していた。 登記簿は、正直なようでいて、ときに“過去の嘘”をも正当化してしまうことがある。
やれやれとつぶやく午後三時の事務所
午後三時、事務所に静寂が戻る。事件は無事に解決し、依頼人は感謝の言葉を残して帰っていった。 サトウさんは静かにパソコンを閉じ、「今日は残業なしで帰ります」と言い放った。 「やれやれ、、、結局、最後に活躍したのは君か」そうつぶやいて、シンドウはぬるくなった麦茶をすするのだった。