相続放棄申述書と一通の手紙
その朝、机の上に置かれていたのは、封筒に入った相続放棄申述書と、もう一通の私信だった。申述書はいつものように法的整合性が取れていたが、添えられた手紙が、妙に胸に引っかかった。差出人は見覚えのない女性。けれど、その筆跡に、どこか懐かしさを覚えた。
「誰だっけな……」そう呟いた私は、コーヒーをすすりながらその手紙をもう一度読み直す。奇妙なことに、その内容は形式ばった相続の話というより、まるで昔の知人への手紙のようだった。
不自然に綴られた申述理由
「相続を放棄する理由は、父の遺志と記憶を尊重するためです」そう書かれていたが、妙に情緒的すぎた。感情を持ち込むなとは言わないが、こうも感傷的だと、逆に何かを隠しているように見えてくる。しかも、その遺志なるものが遺言書には一切書かれていないのだからなおさらだ。
私の鼻が利いた。こういう時は、大抵ロクなことが起きない。だが、どこかワクワクしている自分がいるのも確かだった。まるで昔見た探偵漫画の第一話のように。
消えた遺産と浮かび上がる謎の名前
遺産目録には、不動産が一件、預金口座が一つ。そして不可解なことに、かつて所有していた土地が直前に名義変更されていた。しかもその新たな名義人の姓は、妙に耳馴染みがある。「ツルタ」――それは、私の初恋の人の旧姓だった。
いやまさか、そんな偶然があるだろうか。私は自分の記憶を探るように机の引き出しを開け、小学校の卒業文集を取り出した。なぜか今も捨てられずにいた、恥ずかしい記録だ。
依頼人は初恋の人の娘だった
午後、事務所に現れた依頼人は、年の頃なら二十代後半、切れ長の目元がどこか懐かしかった。挨拶もそこそこに彼女は静かに座り、封筒を差し出した。「これ、母が生前にあなたに渡すように言っていたんです」
開けると、中からはあの頃の写真、そして一枚の便箋が出てきた。差出人は「カズエ」――それは、私の初恋の人の名前だった。
四半世紀ぶりの再会は他人を介して
写真には、小学校の運動会で肩を並べる私とカズエの姿が写っていた。私の手にはバット、彼女の手にはお弁当。そして手紙にはこう綴られていた。「あなたのような誠実な人に、最後の整理をお願いしたくて」
やれやれ、、、まるでドラマのような展開じゃないか。だが、こういう時こそ冷静に、論理と証拠で進まなければならない。たとえそれが、懐かしさと後悔の混じる依頼でも。
遺言書の中の違和感
公正証書遺言には、預金を娘に、不動産は既に譲渡済と書かれていた。だが、その譲渡登記の日付と文面に微妙な違和感があった。登記簿の写しを確認した私は、その違和感が決して気のせいでないことを知る。
遺言の日付が譲渡の数日後になっていたのだ。順序が逆である。普通、譲渡するなら遺言に明記するか、せめて整合性を持たせるはずだ。
不自然な不動産の扱い
さらに不自然なのは、不動産が第三者を一度経由してから「ツルタ」の名義になっていたことだ。その第三者はおそらくダミー。何かを隠すための工作だと私はにらんだ。これは、ただの相続手続きでは済まない。
「サトウさん、登記簿の履歴を洗ってくれ。昭和の頃まで遡れるか」私はそう頼んだ。彼女は塩対応で「無駄だと思いますけど」と言いながらも、キーボードを叩き始めた。
鍵を握るのは登記の履歴
結果はすぐに出た。不動産は一度、カズエの兄が所有していた。だが、ある日突然手放し、そこから所有権が転々としていた。そして現在の所有者――それが娘だったのだ。
これは、法的には合法でも、情としては複雑すぎる。放棄申述書の感傷的な文面が、今ではとてもリアルに思えてきた。
なぜか第三者を経由した謎の譲渡
その第三者は、どうやら家族ぐるみの知人だったらしい。証拠として、譲渡理由が「介護への感謝」となっていたが、介護記録にはその人物の名前は一切なかった。つまり、仮登記のようなものだ。
「これ、サザエさんのマスオさんなら絶対口を出さないパターンですよね」そう笑った私に、サトウさんは呆れた顔で言った。「昭和脳ですね、先生」
旧宅に残る初恋の証
私は、カズエの旧宅を訪ねた。彼女の娘が「どうぞ」と案内してくれたその家は、年季の入った木造家屋で、廊下には風鈴の音がかすかに響いていた。押し入れの奥に、小さな箱があった。
開けると、中には子どものころの手紙、折り紙、そして私宛の古びたラブレターがあった。そこに、「この家とあなたに出会えてよかった」と書かれていた。
手紙に綴られた後悔と願い
カズエは、生前その不動産を娘に譲りたかったが、兄との確執や手続き上の難しさで遠回りしたらしい。その罪悪感と未練が、申述書と娘の手紙に込められていたのだろう。私は胸の奥が少し痛んだ。
「司法書士ってのは、書類の奥にある心も読み解かないといけない」そう自分に言い聞かせた。
サトウさんのひと言で解けた謎
「先生、これって相続放棄っていうより、相続の譲渡と同じじゃないですか? 放棄したフリして心だけは継いでるっていうか」――そう言ったサトウさんの声は、やけに冷静で優しかった。
彼女の指摘がすべてだった。放棄という言葉に隠れた想い。それを汲み取ることこそ、今回の「依頼」の核心だった。
結末と残された想い
相続放棄は正式に受理された。だが、その後娘は自ら登記変更を行い、不動産を売らずに残すことを選んだ。母の気持ちを受け止めた結果だろう。私も何か一区切りついた気がした。
初恋の記憶は、決して甘酸っぱいだけではなかった。でも、それでもやはり、どこか愛おしいものだった。
そしてまた日常へ
事務所に戻ると、サトウさんはいつものように無言で書類を積み上げた。「次の案件、抵当権抹消です」「はいはい、了解」私はため息をつきながらも、パソコンを開く。
やれやれ、、、思い出に浸る時間はもう終わりだ。司法書士に休む暇はない。人生と登記簿は、常に更新されていくのだから。