謎の依頼人が現れる
午前九時、まだコーヒーの香りが事務所に漂う中、控えめにドアがノックされた。扉を開けると、黒いスーツを着た中年の女性が立っていた。どこか影のある目つきで、手には一枚の登記事項証明書が握られていた。
「この家のことを調べていただきたいんです」彼女はそれだけを言うと、椅子に腰を下ろした。どこか思いつめた様子が印象的だった。
午前九時の静けさを破る来客
静かな朝だった。サザエさん一家が休日の朝にのんびりとテレビを見ているような、そんな空気を一瞬で壊したのがその女性だった。事務所に不穏な空気が流れた。
サトウさんがちらりとこちらを見る。無言だが、明らかに「またやっかいな案件ですよ」という顔だ。やれやれ、、、今日もまた一日が長くなりそうだ。
無口な女性と一枚の登記事項証明書
差し出された登記簿を見ると、数年前に亡くなったとされる人物の名前がまだ所有者として残っていた。不動産の名義が更新されていないのは珍しくないが、それ以上に奇妙なのは、申請人の欄に別の名前が書かれていたことだった。
「この名前、心当たりは?」と訊くと、女性は首を横に振った。「父が亡くなったとき、この人の名前を初めて見ました」彼女はそう言って、再び黙り込んだ。
家族関係の不一致
戸籍謄本と照らし合わせると、そこには確かに彼女と亡くなった父親の名前があった。しかし、問題の申請人とされる人物の名前はどこにも見当たらない。これは明らかに何かを隠している。
「幽霊のような存在ですね」と、つぶやくと、サトウさんが小さく鼻で笑った。「探偵漫画じゃないんですから」と一蹴された。だが、どこかで見たことがあるような感覚がぬぐえない。
登記簿に記された名義人の謎
登記の履歴をたどると、十数年前に一度だけ仮登記がなされ、その後抹消された記録があった。しかも、その仮登記の理由は「贈与」となっている。贈与? 誰に? なぜ消された?
司法書士としての勘が働く。これは普通の相続手続きではない。明らかに誰かがこの不動産をめぐって何かを操作しようとしていた形跡がある。
戸籍にも現れないもう一人の家族
旧い戸籍、いわゆる除籍謄本を取り寄せると、そこに一度だけ現れる名前があった。「村井直樹」。昭和五十年に出生、昭和五十五年に除籍。それも、異母兄弟のような立ち位置。
「幽霊、じゃなかったですね」思わずサトウさんが呟く。私は口の中で「やれやれ、、、」と呟きながら、事の重大さを感じていた。
サトウさんの鋭い推理
事務所の机に資料を並べると、サトウさんが立ち上がって一言。「直樹さんって、たぶん家を出された子ですね」。すぐに市役所に照会をかけ、彼の居場所を探す作業が始まった。
このサトウさん、普段は塩対応だが、こういうときだけは名探偵バリの動きを見せる。まるでルパンを追い詰める銭形警部のように、執念深く資料を調べ始めた。
沈黙の裏にある心理的矛盾
相談者の女性が再び訪れたとき、私は意を決して尋ねた。「お父さんが亡くなる前に誰かに会っていませんでしたか?」。女性は数秒沈黙した後、うなずいた。
「知らない男の人が一度だけ家に来て、父と話していました。怒鳴り合っていたような、、、でも、名前も聞けなかった」その男こそが、村井直樹に違いない。
不動産の共有持分に潜む意図
最終的にわかったのは、かつて直樹が贈与を受けたが、父親が強制的に抹消させた事実。そして亡くなる前にまた彼を呼び戻し、何かを伝えようとしていたが、それは果たされなかった。
彼が法的には無関係な立場であっても、感情的な「家族」としての絆は消えていなかったのだろう。だが、それが裏目に出て、今の混乱を生んでいた。
古い登記と新しい真実
登記簿の記録は冷たい。年月と数字だけが並び、そこに感情は存在しない。だが、その背景には必ず誰かの想いがある。直樹の仮登記も、その証だった。
私は彼に会いに行き、簡易裁判所での調停手続きを提案した。彼は驚きつつも「それでいいです」と静かにうなずいた。
昭和の売買契約に隠された秘密
実は、その不動産の所有権は正式な売買ではなく、書面のない口約束で移動していた可能性もあった。昭和の時代にはよくある話だ。だが、それが令和では命取りになる。
結局、私たち司法書士の仕事は、人の記憶を制度に引き戻すことなのかもしれない。書面を超えた事実を、制度の枠にどう落とし込むか。その作業こそが、真の登記の意味だ。
過去の名義変更と行方不明者の関係
直樹が姿を消していた期間、名義変更も、連絡も、誰一人として追跡しようとしなかった。それが今回の事態を招いた。彼を「いなかったこと」にしたのは、家族でもあった。
「家が人を守るんじゃない、人が家を守るんです」そう呟くと、サトウさんが珍しく「いいこと言いましたね」と笑った。私は苦笑いを浮かべた。
真犯人の影
今回の事件に「犯人」はいない。ただ、知らなかったこと、気づかなかったことが積み重なって、結果として誰かを傷つけたのだ。法律はいつも正義とは限らない。
私は再び登記簿を見つめ、静かに決意した。次はもう少し、人の想いに寄り添える司法書士になりたい、と。
電話の声の主を追って
調査中、登記情報を改ざんしようとしていた電話の主がいた。匿名で役所に圧力をかけ、旧記録の閲覧を妨げようとしていたのだ。その声の録音を解析し、ようやく特定に至った。
それは父の旧友であり、過去に土地をめぐって一悶着あった人物だった。結局、警察沙汰にはしなかったが、陰で操作しようとした事実は重くのしかかった。
消えた書類と鍵の隠し場所
家の床下収納から見つかった封筒には、直樹への遺言めいた手紙と鍵が入っていた。そこには「家族とは何か、お前が決めろ」と走り書きがされていた。
法的には無効かもしれない。だが、想いは確かにそこにあった。それを見た依頼人は涙をこぼし、静かに頭を下げた。
決着と再会
直樹と依頼人は、調停を通して「家」を共有することになった。書類上の共有者としてではなく、実際に会い、話し、関係を結ぶことで、ようやく一つの形が見えた。
事務所に戻って、机に向かうとサトウさんが言った。「今回はなかなか良い仕事したんじゃないですか?」私は照れくさくなって、頭をかいた。「まあな、、、」
やれやれ、、、この仕事も一筋縄ではいかない
法律は冷たくても、人の心は複雑であたたかい。それに気づくたびに、私はこの仕事を辞められない。いや、辞められないというより、辞めさせてもらえない。
今日もまた、新たな登記簿とにらめっこしながら、「やれやれ、、、」とつぶやくのだった。
登記簿に記されなかった本当の家族
最後に依頼人がポツリとつぶやいた。「家族って、書類に書いてあるだけじゃないんですね」。私は何も言えずにうなずいた。まさに、その通りだった。
登記簿にはすべては記されない。だが、そこに現れない「何か」を拾い上げるのが、私たちの役目なのかもしれない。