終業時間の鐘に気づかない日々
ふと顔を上げると、事務所の中には自分しかいない。時計を見ると、とっくに定時を過ぎている。そんな日が、もう何度あっただろうか。パソコンの光と書類の山に囲まれて、時間の感覚がどこかへ行ってしまう。気づけば暗くなっていて、外の世界と遮断されているような感覚に襲われる。忙しさのあまり、もはや何が業務時間内で、何がサービス残業なのかも曖昧になってきた。こんな働き方が正しいとは思わない。でも、片付けなければならない仕事は目の前に山のように積まれている。
静かすぎる事務所が教えてくれること
事務所の静けさが、終業時間を超えていることを知らせてくれる。昼間の電話の音も、書類をめくる音も、今はもう聞こえない。自分のタイピングの音だけがやけに響く。この静けさは、どこか安心感と寂しさの両方を含んでいて、誰にも急かされず集中できるのに、なぜか心細い。たまに「まだいたんですか」と事務員に言われると、どこか情けない気持ちになる。自分だけが置いていかれているような、そんな夜だ。
事務員が先に帰るという当たり前の現実
うちの事務所にはひとりだけ事務員がいる。彼女はきっちり定時で帰る。それが当たり前だし、帰れない状況を作ってはいけないと自分でも思っている。でも、彼女が「お先に失礼します」と帰った後、しばらくしても席を立てない自分がいる。仕事が終わらないからでもあるが、どこかで「社長なんだから残って当たり前」という思い込みがある。誰にも求められていない“律義さ”で自分の時間を削っているのかもしれない。
時計を見るまで自分だけ時間が止まっていた感覚
目の前の書類に集中していると、時間は一瞬で飛ぶ。気づけば夜の7時、8時。外は真っ暗で、事務所の外の通りにも人がいない。なんだか、自分の時間だけが止まっていたような錯覚に陥る。元野球部で「最後までグラウンドに残るやつがエース」みたいな精神論に浸ってきた身としては、それが普通だった。でも社会に出てみれば、早く帰ることこそが“できる人”と評価されることもある。価値観がズレたままの自分に、時々、苦笑してしまう。
積み残された書類と向き合う夜
日中は電話対応や来客、急ぎの対応に追われて、まともに書類に向き合う時間がない。だからこそ、事務所が静まり返った夜こそが“自分の時間”になる。この時間が一番はかどるのも事実だ。でも、だからといって毎晩それを繰り返していれば、心も体もすり減るのは当然だ。気づけば家に帰っても、夕飯すら作る気力がない。コンビニの弁当を温めて、テレビもつけずに食べて、風呂に入らずそのまま寝落ちする。そんな日常が続くと、自分が何のために仕事しているのか、よくわからなくなってくる。
「あとこれだけ」と思っていたら終電の時間
よくあるのが、「この案件だけ仕上げたら帰ろう」と思って始めた作業が、思ったよりも複雑で、結局終電ギリギリになるパターン。あれもこれもと気になりだして、気づけば何時間も経っている。しかも集中しすぎていて、周りの音が全く聞こえなくなる。こんな時、ふと事務所の時計を見て愕然とする。もう帰れないじゃん…と。独り身で良かったと無理に思おうとするけど、やっぱりちょっと、むなしい。
片付かない仕事に感覚が麻痺していく
最初の頃は「今日も残業か」と重く受け止めていたのに、今ではそれが当たり前になってしまった。麻痺という言葉がぴったりだ。目の前の仕事を“こなす”ことが日課になり、気持ちの余白が失われていく。少しでも楽になるようにと、業務フローの見直しを試みたこともあった。でも、そもそも手を止めないと改善にも時間が割けない。このジレンマに、何度もため息をついた。
どうしてこうなるのかという問い
毎日こんなふうに働いていて、本当にこれでいいのか?と自問することがある。仕事があるのはありがたい。でも、時間に追われて生活が荒れていくと、何のために独立したんだっけ?と、初心を見失いそうになる。人に頼るのが下手で、抱え込みすぎる性格も、今になって重荷になってきた。そろそろ限界のサインかもしれない。
依頼は減らないけれど人は増やせない
仕事量は年々増えている。相続や家族信託の相談も増加傾向だ。でも、それに見合った人手を確保する余裕がない。事務所の規模も、経営状態も、誰かを雇い入れるにはギリギリ。たった一人の事務員に負担をかけたくない気持ちもあり、結局自分が夜遅くまで残るしかない。自転車操業とはこのことだ。司法書士事務所を経営するということは、想像以上に“労働者”でもあると実感している。
人を雇うという現実的なコストと責任
人を増やせば、自分の負担は減る。でもその分、給料も、教育も、ミスのフォローも背負うことになる。特に地方では、司法書士の業務範囲が広く、専門知識が必要な分、育てるのも時間がかかる。正直、体力的にも精神的にも余裕がない今、人を増やすという選択は現実的ではない。それがわかっているからこそ、無理をしてしまう。
「なんとか回せる」は幻想だった
独立した当初は、「まあ、一人でなんとかなるだろう」と思っていた。でも、それは幻想だった。案件は多様化し、書類の量も膨大。電話対応や説明資料の作成、役所への問い合わせまで全部ひとりでこなすのは限界がある。なのに、“なんとかなる精神”で走り続けた結果が今だ。昔の自分に言いたい。「もう少し甘えてもいい」と。
効率化よりも根性が先に立ってしまう理由
業務効率を上げようと、タスク管理アプリを導入したり、テンプレート化を試みたりもした。でも結局、「自分がやったほうが早い」と思ってしまうのがダメなところ。元野球部的な「努力と根性でなんとかしろ」という思考が、抜けきれていない。システムを使いこなすには、まず“使い続ける”という地道な努力が必要なのに、それができない。自分の限界に向き合うのが怖いのかもしれない。
元野球部的な思考が足を引っ張るとき
高校時代、誰よりも長く残って素振りをしていた。努力すれば報われると思っていたし、実際ある程度の結果は出た。その成功体験があるから、社会に出てからも“残って頑張ること”が正義だと思ってしまう。でも現実の仕事は、頑張りだけでは報われない。効率も、休息も、戦略も必要だ。それがわかっていても、染みついた根性論がつい顔を出してしまう。
自分に厳しいのは自由だが限界はある
自分で決めたことは最後までやり抜く。それが自分の美学だった。でも、それも限界がある。疲れてミスが増えれば、依頼者に迷惑がかかる。何より、自分自身が壊れてしまう。自分に厳しいのは自由だけど、それを他人にまで強要しないよう気をつけなければならない。そして、もう少し自分にやさしくしてもいいのかもしれない。
この生活の先にあるもの
この働き方を続けた先に何が待っているのか、時々怖くなる。健康も、時間も、誰かと過ごす未来も、全部置いてきぼりにして走っている気がする。果たしてこのままでいいのか。いや、たぶん良くはない。だからこそ、今のうちに変えていくべきなんだろう。
モテないのは忙しさのせいだけじゃない
忙しいから出会いがない、というのは言い訳かもしれない。そもそも人と会う気力がなくなっている。疲れきった顔で誰かと会ったところで、相手に気を遣わせるだけだ。それに、自分でもわかっているが、ちょっと愚痴っぽい。女性からすれば魅力的には映らないだろう。変わるにはまず、余裕を取り戻すこと。誰かと関係を築くには、まず自分自身が満たされていないと難しい。
出会い以前に人と関わる余裕がない
仕事を終えてから誰かと会う気力なんて、とてもない。休みの日は寝るか、洗濯して終わる。LINEすら返す気が起きない。そんな状態で「婚活しよう」なんて無理な話だ。仕事のせいで人生がすり減っていく感じがして、ふと虚しくなる時がある。誰のせいでもない、自分が選んだ道なんだけど、それでも“誰か”がいてくれたら、少しは違ったのかもしれない。
「優しさ」は見せる相手がいて初めて価値になる
自分では、そんなに悪い人間じゃないと思ってる。事務員にも優しくしているつもりだし、依頼者のこともちゃんと考えてる。でも、優しさって“誰か”に届いてこそ意味がある。独り言のように優しくしていても、誰も気づかない。やっぱり、誰かに見ていてほしいんだと思う。そう思えるうちは、まだ人とつながる希望が残っているのかもしれない。
この仕事が好きかと問われれば
答えは「嫌いじゃない」だ。でも、しんどい。しんどすぎる日が多すぎる。誇りもあるし、やりがいもある。でもそれだけじゃ、生活は守れない。特に独り身の自営業者にとっては、心のバランスが崩れたときのリスクが大きい。今後も続けていくためには、“頑張らない工夫”が必要だと思っている。
嫌いじゃない でも誇りだけで生きるにはしんどい
この仕事は誇れる。でも誇りだけで飯が食えるわけじゃない。誇りのために健康を削って、孤独を深めて、何を得るのか。そう思ったときに、少しペースを落とす勇気が必要なのだと思った。走り続けるだけが答えじゃない。立ち止まって考える時間も、きっとこの仕事には必要なんだ。
一人で抱えすぎているのかもしれない
誰かに頼るのが苦手で、全部自分でやってしまう。その結果、潰れかけたこともある。今思えば、あのときもう少し誰かに相談できていれば、違った未来があったかもしれない。一人で抱え込まないこと。それは弱さじゃなくて、賢さだと信じたい。少しずつでも、誰かに助けを求める練習をしていきたい。