雨の日の来訪者
事務所のドアが重く軋んだ音を立てて開いたのは、梅雨の湿気が空気を支配する午後のことだった。黒い傘をたたみながら入ってきたのは、二十代後半とおぼしき女性。手にした封筒には「遺産相続登記の件」と書かれていた。
「祖父の名義の家があるのですが……」と語る彼女の声は、少し震えていた。理由は、家の存在ではなく、その登記簿に記されたある名前にあるようだった。
事務所の空気が、一瞬だけ変わった。窓の外では雨が止みかけていたが、何かがこれから始まる気配がした。
古びた戸建と若い依頼人
彼女が持参したのは、十三年前に祖父が亡くなってから一度も手をつけていない戸建の資料だった。場所は郊外の古い住宅街。建物はボロボロだが、土地の評価額はそこそこある。
問題はその家の登記簿だった。所有者欄には、確かに祖父の名前がある。だが、その後ろに打ち消されたような筆跡で、見慣れない男の名前が記されていた。
「こんな名前、聞いたこともありません……」彼女の不安そうな声が耳に残る。
相続登記の相談という名の誘い水
「よくあることです。とりあえず調べてみましょう」そう言ってはみたものの、心の中ではザワつきが止まらなかった。何かがおかしい。
そもそも十三年も放置された相続登記という時点で珍しい。それにこの女の子の表情には、家というよりも『過去』に触れることへの恐れが滲んでいた。
「サトウさん、ちょっとこの資料、洗ってみてくれる?」と声をかけると、「了解です」とだけ返ってきた。相変わらずの塩対応だった。
不可解な名義変更の痕跡
登記簿謄本を隅から隅まで確認すると、ある点が目を引いた。平成二十三年、亡くなったはずの祖父の名義で、何者かによって所有権の移転登記が試みられていたのだ。
司法書士としての直感が、警鐘を鳴らしていた。もしこれが偽造であれば、刑事事件に発展する可能性すらある。
「やれやれ、、、これは面倒なことになりそうだ」ため息が自然と漏れた。
登記簿から消えた所有者の名前
しかもその男の名義は、いつの間にか消されていた。訂正申請もない。つまり、存在してはいけない所有者だった可能性がある。
登記官が誤って処理したのか、それとも意図的に誰かが工作したのか。どちらにしても普通ではない。
「この名前、調べてみましょうか」とサトウさんが口を開いた。やはり、彼女は何かを感じていたようだった。
十三年前の差し押さえ記録
法務局の資料庫で過去の記録を漁った結果、驚くべき情報が見つかった。件の男の名前が、十三年前に差し押さえ登記の一時的な名義として登場していたのだ。
その後、なぜか取り下げられている。差し押さえを申請したはずの債権者の情報は欠落していた。
「情報が、意図的に消されていますね」サトウさんの目が鋭く光った。
サトウさんの静かな一撃
「この印鑑証明書、おかしいです」彼女が出してきたのは、祖父の死亡後に作られたはずの書類に添付されていた証明書だった。
発行日は死亡の二週間後。だが、発行者は『本人』となっている。つまり、死人が自分で証明書を取ったことになっているのだ。
「偽造ですね。確定です」冷たい声で、静かに告げた。
相続放棄の盲点を突く
さらに、依頼人の父親が相続放棄をしていた記録が見つかった。だが、放棄したにも関わらず家の管理だけはしていた形跡がある。
管理をしていたという事実が、第三者の取得を無効にする根拠になる可能性があった。
つまり、放棄はしていても「占有」は続いていた。そのことが、今回の偽装工作を暴く鍵になった。
過去の遺産分割協議書に潜む罠
家族の間で交わされたとされる協議書は、どれもコピーだった。本物がない。しかも全ての筆跡が同一人物の可能性がある。
それを裏付けるため、私はかつての高校野球部で一緒だった警察官OBに相談した。彼は今、民間の鑑定会社に勤めている。
「やっぱり同一人物によるものですね」彼の言葉が決定打となった。
元野球部のカンが働くとき
正直、最初は単なる放置登記だと思っていた。だが、途中から妙に神経が研ぎ澄まされていた。あの頃の、緊張のマウンドを思い出したのだ。
「ピッチャー返し」に対応するような反応が必要だった。こちらが動けば相手も動く。そして、次の一手を読み切らなければならない。
やっぱり、司法書士って野球より難しいなと思った。
筆跡と押印と日付のズレ
三枚の書類の押印が、どれも微妙に傾いていた。しかも日付の筆跡だけが違う。これらは、後から別人が書き加えた可能性が高い。
私は証拠を整え、警察に提出する準備を始めた。依頼人にもすべてを説明した。
彼女は静かにうなずいた。「十三年前の扉が、ようやく閉まりますね」そう言った。
司法書士の責務と推理の交差点
事件は司法書士の範囲を超えていた。だが、だからこそ私の存在意義があるのかもしれない。
不動産という社会資本に対して、正しい記録を残すこと。それは推理と同じくらい、ロジックと証拠を重ねる作業だった。
「でもまあ、俺が間違ってたら全部水の泡だな……」と、自虐的に笑った。
開かれた扉の向こうにあったもの
結局、警察が動き、偽装登記を試みた親族が任意同行された。依頼人はようやく本来の名義を取り戻すことができた。
雨の日に始まった相談は、梅雨が明ける頃に決着を迎えた。
私はその日、いつもより少し長めに事務所に残っていた。
古い登記が語る真実
登記簿は無機質な存在だが、記録される過程には人の欲と罪が刻まれる。
今回も、そんな記録がひとつ、静かにその意味を変えた。
「やれやれ、、、もうひとつ歳を取った気がするな」私は天井を見上げて呟いた。
依頼人の涙と真相の重さ
帰り際、依頼人が差し出した手紙には、「ありがとう」の文字と共に、父親への複雑な思いが綴られていた。
それを読んだ私は、思わずサトウさんに渡した。彼女は無言で受け取り、静かに目を伏せた。
「……こういうの、苦手です」彼女の声は、どこか温かかった。
やれやれの帰り道に
その帰り道、カーステレオから流れてきたのはサザエさんのエンディングテーマだった。なんでこんなタイミングで流れるんだ。
「今日もどこかでサザエさん……か」そうつぶやいて苦笑する。
助手席ではサトウさんが「今夜の晩飯、またカップ麺ですか?」と呆れ顔をしていた。