気づけば、部屋が仕事道具で埋まっていた夜

気づけば、部屋が仕事道具で埋まっていた夜

なぜこの夜に限って、部屋が異様に殺風景に見えたのか

ふとした瞬間、部屋の静けさに違和感を覚えた。いつも通りの夜だったはずなのに、やけに空気が冷たい。視線を移すと、机には登記簿謄本、スキャナー、印鑑セット、ファイルボックス。ソファの上にも封筒が山積みで、床にはキャリーカート。どこを見渡しても「生活感」が消えていた。その夜、自分が“暮らしている”のではなく“作業している”だけの空間に住んでいたことに気づいた。まるで、事務所に寝袋を敷いて生活しているような錯覚。そこに“自分の人生”の香りはなかった。

違和感の正体は「生活感のなさ」だった

いつからだろう。壁にポスターも飾らなくなったし、観葉植物も枯れたまま放置している。冷蔵庫を開ければ、ペットボトルの水とコンビニ弁当。テーブルの上に置かれているのは、趣味の本ではなく「不動産登記の実務」や「民法改正」の解説書だ。昔は、夜になると音楽を流してゆっくりする時間があったのに、今ではBluetoothスピーカーも埃をかぶっている。生活感がない、というより“生活”が存在していないのだ。机に向かう以外の選択肢を、自然と排除してきたようだ。

仕事道具が“生活の中心”を奪っていた

正直なところ、効率は上がったと思う。欲しいものはすぐ手に届く場所に配置してあるし、業務はどんどんさばける。でも、それって“生きやすくなった”とは違う。例えば、昔買ったマグカップ。気に入っていたけど、割れたときに選んだのは100均の業務用だった。机もイスも、「長時間座っても腰が痛くならないもの」を選んだだけ。それが悪いとは思わないけれど、そこに“自分の好み”はなかった。道具に囲まれた結果、自分の居場所はむしろ狭くなっていた。

昔はもっとくだらない物に囲まれていた気がする

若いころ住んでいたアパートには、ガチャガチャで取ったフィギュアや、やたら高かったマグネット式の世界地図、訳もなく買った謎の置物があった。今思えば、それらは無駄なようでいて、心を少しだけ緩ませてくれていた。今の部屋にはそれが一切ない。きれいで、整っていて、業務効率は抜群。でも、心が休まる隙間がない。「くだらないもの」がなくなった分、気持ちの逃げ道もなくなっていた。

どこまでが仕事で、どこからが自分か

司法書士という仕事は、時間も空間も境界線が曖昧だ。依頼が入れば土日も関係なく動くし、急ぎの案件があれば、夜中にでも書類を作らなければならない。そんな生活を何年も続けていると、仕事と私生活の区別がなくなる。電話一本で生活リズムが壊れる。仕事が終わったようで終わっていない、そんな宙ぶらりんな感覚がずっと続く。だからこそ、部屋の中に“生活の線引き”をしておくべきだったのかもしれない。

司法書士という仕事は境界線が曖昧すぎる

例えば、士業仲間の家に遊びに行ったとき、その人は明確に「ここから先はプライベートゾーン」と決めていた。書類は書斎だけに集め、リビングや寝室には一切置かない。その線引きが、意外なほど心の安定につながっていると言っていた。私はというと、寝る場所も仕事道具に囲まれ、起きてもすぐパソコンに手が伸びる。そうやって“線引きのない生活”を続けてきた結果、休むこと自体が下手になってしまった。

依頼人の書類と自分の郵便物が同じ机の上

ある日、ふと机の上を見てゾッとした。住民票、印鑑証明、委任状の束。その隣には、通販で届いた電池パックと家賃の振込用紙。自分の生活と依頼人の書類が、同じ場所でごちゃ混ぜになっている。そのとき、「これはちょっとまずいな」と初めて思った。職業倫理云々の話だけじゃなくて、自分自身の“線引き”が完全に崩壊していた。

「片付かない」のではなく「棲み分けていない」だけ

部屋が散らかっている、と思っていたけれど、よく考えたら“分けていない”だけだった。仕事のスペースと生活のスペース、それぞれにちゃんと役割を与えていたら、ここまでゴチャゴチャにはならなかったはずだ。つまり、問題は整理整頓のスキルではなく、「どこまでを仕事にするか」という設計そのものだった。

たまの休日すら、なぜか安心できない

ようやく訪れた休日。晴れていても、予定がなくても、なぜか心が落ち着かない。「今日のうちにあの書類をまとめておこう」とか、「あの案件の準備くらいはやっておいたほうが」と、仕事の思考が頭の中でうずを巻く。結果、完全に休んだ気になれない。そんな日が続くと、休みそのものが怖くなってくる。

休みに家にいても“仕事が待っている空気”

仕事道具が常に視界に入っているというのは、無意識のうちに精神的なプレッシャーを与える。「今すぐやらなくてもいいけど、そこにあるから気になる」。そんな状態で、どれだけの人が本当に心を休められるだろうか。仕事が見えなければ忘れられるのに、それができない。まるで「仕事に見張られている」ような状態だ。

電話が鳴らなくても心は縛られたまま

着信音が鳴っていなくても、ふとした拍子にスマホを確認してしまう。「依頼が来てるかも」「急ぎの連絡かも」と気になってしまうのは、もう“条件反射”に近い。それだけ四六時中、仕事のことが頭から離れないということだ。これはもう、普通の生活ではないと思う。

私生活を回復するには、まず“椅子”を変えるべきかもしれない

なんでもいいから変えてみようと最初に考えたのが、イスだった。腰痛対策の高機能チェアをやめて、少し低めの、あえて作業に向かないような椅子を選んでみた。すると、不思議とパソコンに向かう時間が減った。座り心地ではなく、“座る意味”が変わったからだ。

座り心地よりも「座る目的」がすでに仕事向け

これまでの椅子選びは、「長時間集中できるか」「疲れにくいか」ばかりが基準だった。けれど、それは裏を返せば「ずっと仕事する前提」の思考だということに気づいた。生活のための家具ではなく、仕事効率化の道具になっていたのだ。

買ったときから「効率」のことしか考えてなかった

思い返せば、机も椅子も照明も、全部“効率重視”で揃えてきた。便利ではあったけど、それが心地よかったかどうかは別問題だ。むしろ、その快適さが仕事の侵食を助長していたのかもしれない。

“趣味って何かありますか?”に答えられない夜

雑談のなかで「最近、何か趣味ありますか?」と聞かれたとき、返答に詰まった。昔は読書やギター、釣りにも手を出したことがあるのに、いまはどれも続いていない。仕事が忙しいから、と言い訳しながら、気づけば“好きなこと”を探すのをやめていた。

昔やってたことを思い出そうとしても浮かばない

脳みそが“効率化”に最適化されてしまったのか、趣味のことを考えても「それって意味あるの?」と自問してしまう自分がいる。損得でしか物事を判断できなくなっているのかもしれない。

気づけば全てが「仕事に役立ちそう」で選んでた

本も動画も、観るのは“実務に役立ちそうなもの”ばかりになった。楽しみのための時間が、すべて「学び」や「成長」に置き換えられていく。それはそれで立派かもしれないが、“自分を楽しませる”という視点は、どこに行ってしまったのだろうか。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。