忙しそうだねと言われたあと、返す言葉が見つからない日々

忙しそうだねと言われたあと、返す言葉が見つからない日々

その一言が胸に刺さる:誰かに「忙しそうだね」と言われた瞬間

「忙しそうだね」。ほんの軽い一言のはずなのに、その言葉をかけられるたびに、胸の奥がチクリと痛む。別に怒っているわけじゃない。ただ、なんて返したらいいかわからなくなるのだ。「まあ、そうですね」とか「ええ、まあ」とか、口をついて出てくるのは曖昧な返答ばかり。そんな自分に、どこか後ろめたささえ感じてしまう。自分では精一杯やっているつもりでも、周囲の目には“余裕のなさ”として映っているのだろうかと、つい考えてしまう。

社交辞令だとわかっていても、心がざわつく理由

たしかに、「忙しそうだね」は社交辞令の一種だろう。相手に関心を持っているフリをしながら、深入りはせず、会話の入口として使いやすい。だけど、その言葉が向けられた瞬間、なぜか心がざわつくのはなぜだろう。きっと、自分でも「忙しすぎる毎日」にうんざりしていて、その現実を突きつけられたような気がするからだ。まるで、自分の乱れた髪を鏡で見せられるような、そんな恥ずかしさと苛立ちが入り混じる。

「忙しい」は誇れること?それとも…

若いころは「忙しい」ことがかっこよく思えた。暇そうにしているより、バリバリ働いていた方が信頼されるし、実力もあるように見える。だけど、45歳になって感じるのは、忙しさは時に“無管理”の証でもあるということ。依頼を断れず、調整もできず、気がつけば予定がパンパン。自分のキャパを超えているのに、惰性で働いている。それを見透かされたようで、あの一言が刺さるのかもしれない。

返事に詰まる自分が嫌になる瞬間

「忙しそうですね」と言われたとき、軽やかに「まあ、好きでやってますから」と返せる人がいる。羨ましい。でも自分には無理だ。返事に詰まり、口元を歪めて「ええ…まあ」と言う。そこで会話が終わる。相手の気遣いも、自分の弱さも、全てが露呈するあの沈黙が怖い。ひとり事務所で、パソコンの前に座り直して、ため息だけが増えていく。

本当に忙しいだけなのか、自分でもわからなくなる

「忙しい」と言えば聞こえはいいけれど、それは本当に“やるべきことが詰まっている”状態なのか、それとも“心の余裕がない”状態なのか。最近では、その区別も曖昧になってきた。ひとつひとつの仕事に向き合うというより、ただタスクをこなす日々。目の前の案件に追われるばかりで、ふと気がつけば、なぜこの仕事をしているのかも見失いそうになる。

仕事の波に飲まれ、気づけば日が暮れている

ある日、朝の9時から相続登記の書類に取りかかり、気づいたら19時を過ぎていた。昼ごはんを食べた記憶もなく、椅子から立ち上がると、足がしびれていた。そんな日はよくある。効率化とか、時間管理とか、頭では理解しているけれど、現場ではそんな理屈は通用しない。何かひとつでも想定外があれば、すべての歯車が狂っていく。

「忙しさ」という言い訳に逃げていないか

ふと、「忙しい」を盾にして、自分の弱さをごまかしていないかと疑うことがある。本当は人と話すのが怖いのか、頼まれごとを断れない性格なのか、それとも自分の中に「働いていないと価値がない」という思い込みがあるのか。もしかしたら、忙しさの正体は、自分自身の生き方の問題なのかもしれない。

地方で司法書士をしているということ

都会とは違って、地方で司法書士をしていると、“何でも屋”になる。相続、登記、会社設立、後見、なんでも来る。コンビニが少ないように、司法書士も限られていて、頼られる分だけ責任も重い。依頼を断れば「冷たい」と言われ、受ければ「遅い」と言われる。事務員一人で回すのは本当に限界に近いと感じることもある。

人口減少と高齢化、なのになぜか案件は減らない

町の人口は年々減っているのに、相続案件だけは増える。高齢化社会の現実が、日々の仕事に直結している。登記簿に残されたままの古い名義、10人以上に分かれた相続人、音信不通の兄弟。まるでパズルのような案件ばかりで、1件の処理に何週間もかかることもある。それでも報酬は限られていて、利益にはつながりにくい。

「頼れる人がいないから」という信頼と重荷

「先生しか頼れないんですよ」と言われることがある。ありがたい。でも、それがプレッシャーになることもある。期待を裏切ってはいけない。間違ってはいけない。そんな思いが、どんどん自分を追い込んでいく。信頼されるのは誇らしい。でも、その信頼に応えるために、自分の時間や感情が削られていく。

事務員ひとり、あとは自分。すべてが自己責任

うちの事務所には、事務員がひとり。彼女が休めば、すべて自分でやることになる。電話応対、郵便物の処理、書類作成、提出、すべて。誰かに頼ることができないのは、自営業の宿命かもしれないけれど、ときどき「俺って、何屋なんだっけ?」と呟きたくなる。ひとりで抱えるには、少し重すぎる現実が、毎日そこにある。

これを読んでいるあなたへ:言葉にできない沈黙に共感を

この記事をここまで読んでくれたあなたも、きっと何かを抱えているのだろうと思う。司法書士であれ、会社員であれ、自営業であれ、人それぞれの「沈黙」がある。その沈黙は、言葉にできない苦しさだったり、誰にも言えない本音だったり。そんな“間”を、誰かと共有できたとき、少しだけ救われた気持ちになることがある。

「わかる」と言ってくれる存在がいるだけでいい

悩みをすべて解決してくれる人はいない。でも、「わかるよ」と言ってくれるだけで、気持ちが少し軽くなることはある。沈黙を責めない人、無理に励まさない人、ただ横にいてくれる人。そんな存在が、今の自分にとっては何よりありがたい。もし、この記事が少しでもあなたの“横”にいられたら、それだけで意味がある。

司法書士という仕事を続ける人たちへ

この仕事は、地味で、報われづらくて、ときどき孤独で、そして本当に大変だ。でも、それでも続けているのは、誰かに必要とされていると感じる瞬間があるからだと思う。ひとつの書類が無事に通ったとき、クライアントの安堵の表情を見たとき、「ありがとう」の一言をもらえたとき。そんな小さな報酬が、次の日への糧になる。

頑張る人の沈黙に、静かに耳を傾けたい

声に出せない悩みを、抱えている人は多い。だからこそ、誰かの沈黙を、無視しないでいたいと思う。何も言わなくても「わかるよ」と寄り添えるような存在になりたい。今日もまた、「忙しそうだね」と言われて、うまく返せないかもしれない。でも、その沈黙の奥にある気持ちを、自分自身は忘れずにいたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。