助けてって言えない仕事の中で

助けてって言えない仕事の中で

一人事務所という現実と限界

地方で司法書士をやっていると、どうしても「一人でなんとかする」のが当たり前になってしまう。小さな事務所に事務員一人。しかも忙しい時期は二人分の仕事を三人分ぐらいの勢いでこなさなきゃいけない。それでも「助けて」と言えない。言ったところで誰もいないし、結局自分がやるしかない現実。これが、地味だけどずっしりとくる日常だ。

「誰かに頼りたい」と思う瞬間

登記のオンライン申請がエラーで返ってきて、顧客からの催促が重なる。電話は鳴るし、次の案件の準備も終わってない。そんな時、本当にふと「誰か代わりにやってくれないかな」と思う。でも、そういう時に限って、事務員さんは別件でバタバタしてるし、結局誰にも頼れない。仕事って、助けを呼んじゃいけないルールでもあるのかと思う瞬間がある。

事務員に言えないことの壁

事務員には感謝している。でも、こちらのストレスをぶつけるわけにもいかないし、お願いしすぎても悪い気がしてしまう。言葉を選んで話すから余計に疲れるし、結局本音は心の中で「助けてくれよ…」とつぶやくだけになる。人を雇うって、助けてもらえる反面、「これ以上負担かけられないな」って遠慮が生まれてしまう。

元野球部だった頃のチームワークと今の孤独の対比

昔、野球部では声を出せば誰かが動いてくれた。「声かけ」は助けを求める合図だった。でも今は? こっちが声を出したところで誰も来ないし、むしろ「そんなの自分でやれよ」って空気すら感じる時がある。チームプレーの世界から、完全なる個の世界へ。あのギャップに、時々心が追いつかなくなる。

司法書士は何でもできて当然という幻想

世間から見れば、司法書士って「なんでもスムーズにこなせる人」っていうイメージがあるらしい。でも実際はトラブル対応に胃が痛くなるし、書類のミスに気づいた時なんて震える。そんな中でも「プロだから当然」と思われる。だけど、こっちだって人間。しんどい時だってあるし、間違いだってする。

弱音を吐くと信用を失うという空気

「ちょっとしんどくて」とか「今パンクしそうなんです」と言ったら、仕事が減るんじゃないか。依頼が来なくなるんじゃないか。そんな不安があって、弱音なんて出せやしない。司法書士は信用商売だってわかってる。だからこそ、無理してでも「大丈夫です」って言ってしまう。そのツケが後でどっとくるのに。

頼ることが許されない仕事の重み

「これ、お願いできますか?」って言えたらどれだけ楽か。でも、誰も代わりがいない。責任も判断も、全部こっち持ち。誰かに相談しても、「で、どうするんですか?」と返ってきたら終わり。決断するのは自分。そこに逃げ場はないし、間違えばすべて自分の責任。これがどれだけ重いか、やった人にしかわからない。

頼れる上司がいないという構造的な孤独

会社員時代は、上司や先輩に泣きつけばなんとかなった。でも今は、自分がその「なんとかする側」。どれだけ追い詰められても、逃げ道がない。壁にぶつかった時、気軽に相談できる「上の人」がいないって、こんなにも孤独なんだと痛感する。これは独立して初めて感じた、想定外の重さだった。

「助けて」が言えない理由を自分で作っているかもしれない

「助けて」と言えないのは、周りのせいだけじゃない。自分で「言ってはいけない」と思い込んでいる部分もある気がする。プライド、責任感、信頼の重圧。結局、それらを背負いすぎて、声に出す前に飲み込んでしまう。本当は少し「助けて」って言えた方が、人間としてちょうどいいのかもしれない。

プライドと責任感のはざまで

「こんなこともできないのか」と思われたくない。そんな小さなプライドが、自分の首を絞める。責任感もある。「自分の仕事は自分で」という意識が強すぎて、頼ることに罪悪感すら感じてしまう。でもそれって、助けを求められない性格を自分で強化してるだけなんじゃないかと、ふと気づく時がある。

助けを求めることの怖さと恥ずかしさ

助けて、って言った瞬間に、自分のダメさが露呈するような気がしてしまう。「情けない人」と思われたくない。特に、男性ってそういうところで見栄を張る。でも実は、その見栄が一番自分を苦しめてる。誰かに「ちょっと手を貸して」と言うことの難しさと、それを恥ずかしく思ってしまう不器用さがある。

誰にも相談できないことの連鎖反応

一度「助けて」を我慢すると、それがクセになる。そして、何でも一人で抱えるようになる。そうすると、ますます周囲に相談しづらくなり、孤立していく。負のループだ。誰にも言えないことが積み重なって、ある日突然「もう無理だ」となる前に、少しでもその連鎖を断ち切る勇気を持てたらと思う。

忙しさが助けを求める余裕を奪う

本当に忙しいと、「助けて」と言う余裕すらなくなる。朝から晩まで予定が詰まっていて、トイレに行くのも忘れるレベル。そんな中で「助けて」なんて言う余裕、どこにある? 気づいた時には、心が折れている。これは多分、どの士業でも共通のあるあるだと思う。

電話一本すらストレスに感じる日常

電話が鳴るとビクッとする。「またトラブルか?」「急ぎの登記か?」と身構えてしまう。普通の人から見ればただの電話でも、こちらにとっては精神をすり減らす要因になる。そんな状態で、「手伝って」なんて言える気力は残っていない。ただこなすだけの日々に、声をあげる元気すら失われていく。

休めないという呪いのような思い込み

「今日はもう休もう」と思っても、結局メールを開いてしまう。「休んだら後が怖い」とわかっているから。この休めないループが、心身をどんどん消耗させる。でもそれも、「助けて」と言えない環境が作っている。誰かに任せる勇気があれば、少しは自分を取り戻せるかもしれないのに。

忙しいふりと本当に忙しいの境目

時々、自分でも「本当に忙しいのか、ただ逃げてるだけなのか」わからなくなることがある。忙しいふりをしていれば、弱さを見せずに済む。けど、それって誰のためになるんだろう。自分自身にとっては、結局何も良いことがない。ただただ疲弊していく自分を見て、情けなくなる夜もある。

本音をこぼせる相手がいるか

「助けて」と言える人が一人でもいたら、たぶん世界は違って見える。けど、その「一人」がいないのが現実だったりする。同性の友人も減ってきて、異性に愚痴れる年齢でもない。だからこうして、文章で吐き出すことに意味があるのかもしれない。せめて誰かに届けばと思いながら。

友達が少ない大人の現実

大人になると、友達が減る。昔は野球の仲間がいた。でも今は、年賀状すらやりとりしない関係ばかり。友達に「ちょっと聞いてくれよ」と言える相手がいない。孤独って、静かに、でも確実に心をむしばんでくる。司法書士に限らず、たぶん多くの人がそうなんじゃないだろうか。

独身の気楽さと孤独の裏表

独身は気楽だ。誰にも合わせずに生きられる。でも、気楽と孤独は紙一重。特に病気の時、何かトラブルが起きた時、「あ、自分一人だ」と思い知らされる。誰にも甘えられない自由。それは同時に、誰にも守ってもらえない不安でもある。だから余計に「助けて」が言えなくなるのかもしれない。

誰かとただ黙っていてくれる時間の価値

結局、「助けて」なんて言葉じゃなくても、そばにいてくれる人がいるだけで救われる。話さなくてもいい。ただ黙ってコーヒーを飲んでくれるような人。そんな存在が、どれだけありがたいか。仕事でも私生活でも、「言葉にしなくていい助け」があれば、もう少し、今日という日を穏やかに過ごせたかもしれない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓