気を遣いすぎて仕事が進まない日々
僕は地方で司法書士事務所を営んでいる。小さな事務所で、事務員さんは一人。頼りにしているし、いなければ回らない。しかし、その存在がありがたい反面、日々「気を遣いすぎる」自分に疲弊している。例えば電話の取次ぎ一つ取っても「今、声かけて大丈夫かな」と迷い、結果、自分で出てしまうことも多い。そんな小さなことの積み重ねが、確実に僕の中にストレスとして蓄積されていく。
些細な声掛けにも神経をすり減らす
「お茶どうぞ」と出してくれるのは嬉しい。けれど、その時のトーンが少し低かっただけで、「機嫌悪かったかな」「朝から疲れてるのかな」と勝手に読み取ってしまうのだ。野球部時代には考えられなかった。上下関係の中で「気を遣う」のと、今の「気を遣いすぎる」は全く違う。相手の体調や心理状態をエスパーのように探っては、勝手に自分を消耗させている。まるで気配りという名の迷路に迷い込んでいるようだ。
「お疲れ様」のタイミングで悩む
朝の挨拶や帰り際の「お疲れ様です」の一言すら、タイミングを外しては気まずくなる。忙しそうな時に声をかければ邪魔だし、黙っていたら無愛想に思われる。以前、「お先に失礼します」と言われた時、聞き逃してしまって返せず、次の日一日気まずかった。そんな小さなことで心が疲れる日々。優しさのつもりが、自分の中でストレスになってしまうこの現実に、時々「俺、何してるんだろ」と虚しくなる。
機嫌が悪そうに見えると内心パニック
たまたま相手が黙っているだけでも「怒ってるのかも」「何か気に障ることを言ったかな」とぐるぐる考えてしまう。僕はそもそも人の顔色を読むのが得意ではない。だけどこの業界、対人関係での摩擦を避けたい一心で、気を遣いすぎる癖がついた。昔の友人には「もっと図太くなれよ」と笑われたが、そんなふうに開き直ることができるなら、こんなに悩んでない。内心のパニックを笑顔で隠す日々は続いている。
一人事務所のバランス感覚という罠
一人事務所では「誰が悪い」ではなく「誰も悪くない」が積み重なる。それでも雰囲気が悪くなれば、責任は所長である僕に返ってくる。だからこそ、事務員さんとの人間関係には気を遣わざるを得ない。経営者であり、同時に“気の利く同僚”でもあろうとすると、そのバランスは実に難しい。自分を犠牲にしてでも円滑にしたい、そう思って動いた結果、自分がどんどん潰れていくことに気づいてしまった。
自分の顔色で空気が変わる重圧
朝、自分が不機嫌な顔をしていたら、事務所全体が沈む。逆に無理に明るく振る舞っても、どこかで無理がたたって爆発する。そんな綱渡りみたいな日々が続いて、ある日ふと思った。「なんで事務員さん一人のために、こんなに感情を抑えてるんだろう」と。いや、彼女が悪いわけではない。でも、僕が“良い雰囲気”を保とうと努力しすぎて、かえって誰も得していないように感じるのだ。
頼れないから自分で抱える悪循環
少しでも頼めば、「忙しいのに…」と思われるんじゃないかと考えてしまう。だから、結局は自分で全部抱え込む。その結果、自分のタスクがパンクしてイライラし、また自己嫌悪。まるで自分で火をつけて自分で水をかけてるような無駄な労力。頼るって、簡単そうで本当に難しい。元野球部のくせに、ここまで人に頼れなくなるなんて、20代の自分に言ったら信じないだろう。
元野球部なのに気が小さくなっている
高校時代、怒鳴られながらも大声で返事していた自分が、今や事務員さんの機嫌ひとつで心をざわつかせている。気が小さいというより、繊細すぎるのかもしれない。でも、この繊細さがあるからこそ依頼者の不安にも敏感になれるし、仕事のクオリティも下げずに済んでいる。そう思えば、悪いことばかりではないのかもしれない。でもなあ…やっぱり、疲れるものは疲れる。
「優しさ」が逆に苦しさを生む矛盾
自分では「優しい人間」でいたいと思っている。でもそれが裏目に出ることも多い。相手のことを思って言葉を選びすぎて、逆に伝わらなかったり、気を使いすぎて「距離がある」と思われたり。優しさが足かせになるって、なんとも皮肉な話だ。優しさって、時には不器用で、そしてすごく疲れるものなのかもしれない。
指摘できずに小さなストレスが積み重なる
例えば書類のミス。気づいたときに「ここ違いますよ」と言えば済むのに、「指摘したら傷つくかな」と思ってしまい、タイミングを逃す。そして後になって別の形でミスを補う羽目になる。それを繰り返すうちに、ちょっとした違和感が大きなストレスに膨らんでいく。指摘することで関係が悪くなるのを恐れて、結局は自分の首を絞める結果になる。
注意もできずに自己嫌悪へ
以前、「この表記、間違ってました」とだけ言ったら、その日一日、事務員さんが黙り込んでしまった。こちらとしては責めたつもりもなかったのに…それがトラウマになって、以後はさらに言えなくなった。結果として、僕の中には「また言えなかった」「また自分で処理した」っていう小さな後悔がどんどん積もっていった。自己嫌悪のスパイラルだ。
いつの間にか自分の存在が薄くなる
気を遣いすぎて、言いたいことも言えず、優しさを盾にして、自分をどんどん後ろに下げていく。気づいたら、自分の存在感がどんどん薄くなっていくような感覚になる。事務所の中心は僕のはずなのに、どこか「影のマネージャー」みたいなポジションに甘んじてしまう。本来なら、もっと堂々としていていいはずなのに。
誰かのために頑張ることの意味を見直す
気を遣いすぎることで、自分が疲れてしまっては本末転倒だ。誰かのために頑張ることは美徳だけど、それが自分を壊すなら意味がない。少しずつ、考え方を変えていかないと、このままでは長く続けられない。最近になってようやく、そう感じるようになった。
いい人でいることは本当に必要か
「いい人」でいようとしすぎると、都合のいい人になってしまう。それは職場でも、プライベートでも同じ。いい人=正しい、ではない。むしろ、時には自分を優先させて、ハッキリものを言うことが、長く関係を続けるうえで必要なことなんじゃないか。そう思うようになった。
事務員さんも気を遣っているという事実
ふとした拍子に、事務員さんのほうから「先生、いつも気を遣ってくださってありがとうございます」と言われたことがある。その時初めて、向こうも同じように気を遣っていたんだと気づいた。自分ばかりが気を遣っているつもりだったが、実はお互い様だったのだ。それに気づいた瞬間、少しだけ気が楽になった。
勇気を出して「ちょっと話そうか」と言えた日
先日、「最近どう?」と雑談を交えて少し真面目な話をしてみた。「困ってることない?」と聞いたら、「実はあります」と返ってきた。お互いに気を遣いすぎて話せなかったことを、一歩踏み出して共有できたことで、関係性が少し変わった気がした。優しさって、黙ることじゃなくて、話すことだったのかもしれない。