弱音を吐けない自分に疲れてきた日
気づけばまた今日も誰にも頼れずにいた
毎日いろんな相談が舞い込む。登記、相続、会社設立、細かい確認、時には急ぎの電話。ひとつずつ終わらせていけば済む話なのに、重なると息が詰まってくる。それでも、つい「大丈夫です」と口から出てしまうのは、もう癖だろうか。疲れていても、頭が回らなくても、「任せてください」と言ってしまう。結局、その“強がり”で自分の首を絞めているのに、誰にも言えずに今日も一人で背負ってしまった。
仕事の山に黙って向き合う日々
ふと机の上を見ると、依頼書類が積み上がっていた。スタッフの女性が「大丈夫ですか」と声をかけてくれたのに、「うん、大丈夫」と反射的に返してしまった。あれ、これ、野球部の時の「痛いって言ったら監督に怒られるやつ」みたいだな、って思って苦笑いした。でも、誰にも頼れないんじゃなくて、自分が頼らないようにしてるだけかもしれない。そう思って、ちょっと胸が苦しくなった。
「頼る」という選択肢が浮かばない
誰かに「これお願いできますか」と言うと、相手に迷惑かけるかもって思ってしまう。だから全部、自分で処理する。しかもその方が早いし正確だと思い込んでる。でも、本当はただ“頼る”という行為に慣れてないだけだ。元野球部で上下関係が厳しかったからか、気を使いすぎてしまう癖が残っているのかもしれない。頼るって、難しい。でも、その難しさが今、疲れの原因なんだ。
あの時ほんの一言「しんどい」と言えていれば
去年の夏、父親の体調が悪くなって、毎晩見舞いに通っていた時期があった。昼間はいつも通り仕事をこなしていたけど、内心はかなりギリギリだった。事務員に「最近ちょっと顔色悪くないですか?」って言われても、「気のせいだよ」と笑ってごまかした。でも今思えば、あのとき「ちょっとしんどいんだ」って一言だけでも言えてたら、もう少し楽だったかもしれない。自分の心にすら嘘をついていたのかもしれない。
強がりの癖が抜けないのはなぜか
いつからだろう、「しっかりしているね」「頼りにしてるよ」って言われるたびに、自分の中で「弱音=負け」みたいな感覚が染みついていった。たとえば相談者の前で表情を崩さず、冷静に対応している自分。それが“司法書士としての正しさ”だと信じて疑わなかった。でも、気づけばその仮面を外せなくなっていた。そして仮面をつけたまま、誰にも本音を言えなくなっていた。
元野球部気質の「我慢は美徳」精神
高校時代、野球部だった。毎日のように走って、怒鳴られて、暑さに耐えていた。でも、試合に勝った時のあの感覚だけが支えだった。「痛い」と言わないことが美徳だった。そんな価値観を、社会に出てからもずっと引きずっていたんだと思う。我慢することが大人の証。そう思い込んでいた。でも、仕事とスポーツは違う。誰かと一緒にやるのが仕事なら、我慢だけじゃだめなんだよな。
後輩やスタッフの前では崩れられない
一応、事務所の代表だし、頼られる立場にはいる。だから、弱音なんて吐いてたら信頼されないんじゃないかって怖い。事務員の子も真面目でしっかりしてるから、つい「ちゃんとしなきゃ」って思ってしまう。でも本当は、自分が勝手にそう思い込んでるだけで、相手はそこまで求めていないのかもしれない。肩に力が入りすぎて、もう筋肉痛になりそうだ。
でも結局一番苦しくなっているのは自分
一人で全てを抱えるのは、正直きつい。毎日、自分の中で誰にも聞かれない相談会を開いて、結論だけを持って外に出している。でも、そのプロセスでどれだけ心がすり減っているか。ふと夜に、事務所で一人電気を消すとき、深いため息が出る。「ああ、今日も何も言えなかったな」って。誰のせいでもない。自分が自分に、許してやれないだけだ。
「弱音=ダメな自分」という思い込み
本音を言えない人間は、社会に適応できていないのかもしれない。そう思っていた時期もあった。だからこそ、司法書士という“正確さ”と“誠実さ”を求められる職業を選んだのかもしれない。でも最近は思う。「弱音=悪」ではなく、「弱音=人間らしさ」なんじゃないかって。強さって、無理を続けることじゃない。ちゃんと立ち止まることも、強さの一つなのかもしれない。
過去の経験が作った無意識の壁
昔、ちょっとした失敗をしたとき、身内や同業者に「だから甘いんだよ」と言われたことがある。その時の悔しさが、いまでも心に残っている。あれ以来、自分の中に“甘さ”を否定する声が住みついた。つまずいた時に誰かに手を伸ばすことが“逃げ”のように感じていた。でもあれは、相手の声であって、自分の声じゃなかった。もうそろそろ、自分の声を聞いてやらないといけない。
強さの正体ってなんだったっけ
本当の強さって、なんだろう。依頼者のために遅くまで残業すること? 書類を完璧に仕上げること? それも大事かもしれないけど、時には「今日つらいので早退します」と言えることの方が、ずっと勇気がいる。人に弱さを見せるって、怖い。だけど、それを越えたときにしか見えない景色がある。完璧じゃない自分を認められたとき、少し肩の荷が下りる気がする。
優しさと弱さは共存できるはず
「弱音を吐く=誰かを頼る」ってことだ。優しい人ほど、迷惑をかけたくないと思う。でも、その優しさを自分にも向けてあげられたら、少し楽になるのかもしれない。自分が自分にとっての味方になれること。それが今、一番必要なことなんじゃないかと思う。誰にも弱音を吐けないなら、まずは自分に「今日もよくやったよ」と言ってやりたい。
それでも今日も誰かのために動いている
たとえ疲れていても、誰かが「助かりました」と言ってくれると、また動けてしまう。この仕事のやりがいはそこにある。だからこそ、自分の疲れには鈍感になりやすい。でも、自分を大事にしなければ、人を支える力もなくなってしまう。そんな当たり前のことを、今になってようやく実感している。
依頼者の前では笑顔でいなきゃいけない
初めての相談、相続で混乱している依頼者、突然のトラブル。そういった時、こちらが不安そうにしていたら余計に相手を不安にさせてしまう。だから笑顔で、落ち着いて対応する。でも、ふとした瞬間に心がカラッポになっている自分に気づくことがある。「あれ、今日何食べたっけ?」とか、そんなことを考えながら、虚ろな顔をして帰宅する。笑顔の裏で、心は疲れている。
心がすり減っていくのに気づかないふり
「疲れた」と思ったときには、もう手遅れになってることが多い。それぐらい、日々の仕事に追われて、自分を見つめ直す時間なんて取れない。だからこそ、気づいた時点で立ち止まるしかない。無理して頑張りすぎてしまう自分に、「今日はこれでいい」と言ってやる勇気が必要だ。それができないと、誰の期待にも応えられなくなる日がくる。
少しずつ「吐き出す練習」をしてみた
最近、意識して「疲れたな」と声に出すようにしてみた。別に誰かに言わなくてもいい。まずは自分に言うだけでも、少し楽になる。心の中でさえ強がっていたことに気づいて、なんだか涙が出そうになった。弱さを認める練習。それが今の自分には必要なことなんだろう。
小さなつぶやきが心を楽にした
朝、コーヒーを飲みながら「今日はちょっとしんどいな」とつぶやいたら、不思議と心が軽くなった。誰かに聞かせるためじゃない。自分のためのつぶやき。それがあるだけで、今日一日が少し違って見えた。小さなことだけど、続けていけば、きっと大きな変化になる。
信頼できる相手は意外とすぐそばにいた
この前、事務員の子に「先生、ちょっと元気なさそうですね」と言われた。つい「そうかな」と笑ってしまったけど、内心では驚いていた。ちゃんと見てくれている人がいるんだな、と。もしかしたら、自分が勝手に「ひとり」と思い込んでただけかもしれない。少しずつでも、誰かに心を開けたら、世界はもっと優しくなるのかもしれない。