一日の終わりに必ず出るため息
気がつけば、毎晩寝る前に大きなため息をひとつつくのが習慣になっている。誰かに教わったわけでもないし、意識してやっているわけでもない。それなのに、布団に入る瞬間、ふぅ……と出る。それがまるで「今日という日を終える合図」みたいになっている。誰にも聞かれないように、電気を消した後、小さくでも深いため息を落とす。45歳、独身、司法書士。守る家族もいない。でも、日々の責任だけは重たい。だからこそ、誰にも見られない時間に、自分の弱さを吐き出す。そうやってなんとか、自分をつないでいる。
なぜ寝る前にため息が出るのか
これは自分でもよく考える。疲れてるから? うまくいかないことが多いから? 寝る前になると、なぜか「もっとああすればよかった」という後悔が頭をよぎる。今日一日、自分なりにやったつもりでも、どこかで「足りなかった」と思ってしまう。その積み重ねが、ため息という形になって出てくるんだろう。人に迷惑をかけてはいけない。そう思って生きてきた。でも、自分にだけは甘くてもいいんじゃないか。そう思ってため息をついて、眠りにつく。
今日もまた反省と後悔のセットメニュー
「あの書類、あれで本当に良かったのか」「お客さんの表情、少し不満そうだったかも」。寝る前に考えても仕方ないのに、つい反芻してしまう。野球部時代、監督に怒られたことを思い出す。反省して明日につなげろ、と。だけど社会に出て、司法書士という仕事になってからの反省は、誰かが見てるわけじゃない。自分で気づいて、自分で処理するしかない。誰も正解を教えてくれない。それが、じわじわと心に効いてくる。
司法書士という仕事の重たさ
士業って、外から見ればきっちりしてて、安心感があるように見えるんだろう。でも実際は、責任と神経の消耗戦だ。特に司法書士は、名前が表に出ない仕事だからこそ、間違いが許されない。登記の一文字で不動産が動かない。そんな世界に生きている。自分の名前がない=失敗しても大丈夫、では決してない。むしろ、名前が残らないからこそ、「間違えられない」が染みついてしまう。
「間違えられない」のプレッシャー
ミスをすれば、依頼者に迷惑がかかる。だけじゃない。不動産屋や銀行、税理士など、関係者すべてのスケジュールが狂う。責任の連鎖が待っている。誰も「仕方ないよ」とは言わない。それが当たり前の世界。しかも、当日中に直せないような登記の間違いは、信用にも傷をつける。一つの不備が、次の依頼を消す。そんな緊張感のなかで毎日仕事してるのに、「忙しいね」だけで済まされるのが、ちょっと虚しくなる。
ひとつの確認に三重のチェック
新人の頃、先輩から「最低でも三回見ろ」と言われた。その言葉が今も残っている。自分でも、チェック、再チェック、さらに確認。もはや癖だ。だけど、それでも不安になる夜がある。たとえば、登記完了書類を返送し忘れていないかとか、名前の漢字間違ってないかとか。完了していても、確認が終わっていても、「あれ?」と不安になる。だから寝る前に、スマホのメモを見返して安心しようとする。たいてい何もない。でも、それが当たり前だから安心もできない。
神経質にならないとやっていけない現実
「細かい性格ですね」と言われることがある。褒め言葉かもしれないけど、本音を言えば、細かくならざるを得ないのだ。じゃないとミスにつながる。自分は神経質なんじゃなくて、神経を削ってる。仕事が終わったあとも、どこかで「大丈夫か?」が頭の片隅にいる。休日でも完全にはオフにならない。それはもう、職業病。笑って話せるようなものじゃない。
孤独と静寂とタスクと
誰にも相談できないことが増えた。ひとりで事務所を回していると、「誰かに任せる」という選択肢が基本的にない。事務員さんは一人いるけど、すべてを任せられるわけではないし、ましてや自分の感情までは託せない。そうなると、孤独と向き合うしかない。静かな夜ほど、心がざわつくのはそのせいかもしれない。
電話が鳴らないときほど不安になる
電話が来ない日は、時間ができたようで心が落ち着かない。なにか忘れてるんじゃないか? もしくは、依頼がなくなってきたんじゃないか? 売上が心配、事務所の維持が不安、そんな思考がぐるぐる回る。鳴ってほしいけど、鳴ると忙しくなる。でも、鳴らないと不安になる。結局、どっちに転んでも気が休まらない。
夜に鳴るLINEはたいてい役所ではない
夜に鳴るLINEは、どうせ広告か友人の一言。それも、既婚者の自慢や飲み会の誘いが多い。正直、応える気にもならない。たまに相談が来ると期待して開くけど、現実はたいてい違う。誰かに頼られるのも重荷だけど、誰にも頼られないのも空しい。そんな矛盾のなかで、ため息が出る。
寝る前のため息に混ざる願望
ため息には、少しだけ願いも混ざっている。明日はもう少し楽にならないかな。誰かと笑い合える時間があればいいな。そんな小さな願い。声に出すこともないけど、ため息に込めることで、なんとか心のバランスを取っているのかもしれない。
一人で全部抱えなくていい日が来るのか
全部自分でやるのが当たり前。そう思ってきたけど、そろそろ限界も感じている。後継者もいない、相談相手もいない、恋人もいない。「いない」の三拍子だ。これが現実。でも、こんな自分でも、いつか「分担できる日」が来たらどうだろう。少しだけ生きやすくなるんじゃないか。そう思うだけで、ため息の成分が少し軽くなる。
誰かに弱音を吐けたら楽になるのか
誰かに「疲れた」と言ってみたい。でも、それがなかなかできない。仕事の愚痴を言っても、誰かの負担になるだけだと思ってしまう。だから溜め込む。でも、ふとした瞬間にポロッとこぼれる言葉がある。それを受け止めてくれる人がいたら、もう少し自分に優しくなれるのかもしれない。だけど、今はまだその人はいない。
たまには「もう無理」と言ってみたい
「もう無理だよ」って言ったところで、仕事は終わらないし、締切はやってくる。それでも、言うだけで楽になる言葉ってあると思う。強がらずに、本音を吐き出すことで救われることもあるはず。だけど、それを許す環境がない。だからため息になる。だから誰にも聞こえないように、寝る前に吐き出す。
それでもまた朝が来る
ため息をついて、なんとか気持ちを落ち着けて眠りにつく。眠れるだけマシだと自分に言い聞かせる。そして、また朝が来る。繰り返す日々。でも、その中に少しでも意味があればいい。誰かの役に立ったなら、それだけでもう十分なのかもしれない。
少しでも軽くなるように手放す習慣
完璧を目指さないこと。弱さを認めること。そういう手放しを覚えてから、ため息の質が少し変わった気がする。ただの疲れじゃなくて、調整のための呼吸になってきた。ため息って、思ったより生きるために必要なのかもしれない。
寝る前のため息が合図になるなら
一日が終わるサインとしてのため息。それは決してネガティブなものだけじゃない。今日もよくやったな、そんな意味も込めて、息を吐き出す。それだけで、次の日がほんの少しやりやすくなる気がする。誰に聞かれなくてもいい。自分だけが知っている合図。
同じように深呼吸してるあなたへ
今これを読んでいるあなたも、寝る前にため息をつく人かもしれない。もしそうなら、仲間だと思ってほしい。しんどい日もあるけれど、それでも朝は来る。今日も一日、お疲れさまでした。そして、ため息のあとには、少しでも穏やかな眠りが訪れますように。