朝から気配はあったこの日は何かが起こると
朝一番、事務所に入った瞬間から違和感があった。書類の重なり方、電話の鳴るタイミング、プリンターの紙詰まり。こういう日は、決まって“何か”が起こる。直感というよりは、経験則に近い。毎日同じように見える仕事の中でも、妙にざわつく一日は存在する。元野球部の勘と言えば聞こえはいいが、要するに小さな不運の連続に、過敏になっているだけかもしれない。でも、今回は違った。実際に“事件”は午後に起きた。
書類の山と電話の嵐で汗が滲み始める
午前中、ひっきりなしに届く書類と依頼の電話。冷房は入れているはずなのに、じわじわと背中に汗が滲んできた。事務員さんもだんだん無口になってきて、ただカタカタとキーボードを打つ音だけが事務所に響いていた。電話口で「すぐできますか?」と軽く言われるたびに、こっちは心の中で叫びたくなる。できるわけがない。急ぎの登記なんて、そもそも矛盾だ。そんな思いを飲み込んで、今日も机に向かった。
エアコンの効かない事務所で黙々と作業
事務所は築年数の古い木造。エアコンの効きが悪く、日差しが窓を通して室温をじわじわ押し上げていく。まるでサウナでパズルを解かされているような集中力の試され方。水分補給のための麦茶を飲む手が止まらない。事務員さんも無言で、でも確実に処理を進めてくれている。二人だけの事務所。空調が悪いのも、書類が多いのも、全部分かち合って進むしかない。
事務員さんも無言モードに突入する午前中
普段は「今日のお昼どうします?」と声をかけてくれる事務員さんも、この日は一切の雑談なし。こっちも雑談する余裕などなく、ただただ押し寄せる処理の波に溺れないように必死だった。時計を見ると、もう11時半。昼休憩が遠い。気づけばシャツの背中がじっとり濡れていて、もう一度冷房の設定を確認するが、温度はすでに最低。心の中で「勘弁してくれ」とつぶやくしかない。
急ぎの登記依頼がまさかのタイミングで
ようやく昼食を口にしようとしたそのときだった。一本の電話が事務所の空気を変えた。「今日中に登記をお願いしたいんですが…」その言葉に、昼飯の味噌汁が喉を通らなくなる。依頼主の事情もわかる。事情があるからこそ“今日中”なのだろう。だが、こちらにも事情がある。とはいえ、「できません」と断るのもなかなか難しい。電話を切ったあと、深いため息をついた。
依頼主からの電話一本で空気が変わる
一人の依頼主の「今日中に」という言葉は、事務所の空気を一変させる魔法の呪文のようなものだ。実際には呪いに近い。手元にある登記原因証明情報を睨みながら、間に合うのかを計算する。可能性は…五分五分。行くしかない。書類をまとめ、押印を確認し、役所の受付時間を再確認。時計の針が午後1時を指す頃、覚悟が決まった。「行ってきます」そう言って、私は事務所を飛び出した。
「今日中に出したい」と言われたときの絶望感
「今日中に」と言われると、断るにも勇気がいる。なんとかしてあげたいと思う反面、自分の体力と時間の残りを計算する癖も身についてしまった。「間に合えばラッキー」という軽い気持ちで言われた一言が、こちらの一日を地獄に変えることもある。今回もまさにそれだった。でも、こういう依頼こそ、後々感謝される確率が高いことも経験上わかっている。だからこそ、断れない。
電子申請では間に合わない地獄の現実
電子申請が万能だと思われがちだが、実際には地番の問題や添付書類の物理提出など、即日完了が不可能なケースが多い。今回もまさにそれ。時間外ポストではなく、窓口に間に合わせる必要があった。提出先は車で40分。猛暑のなか、車内のエアコンも焼け石に水。汗だくでハンドルを握り、信号に文句を言いながら、私はまっすぐ役所を目指した。
猛暑のなか役所へ走ることを決意
外に出た瞬間、メガネが曇った。冗談ではなく、本当に前が見えなかった。40代にして、こんなにも走るとは思わなかった。元野球部という過去の栄光にすがって猛ダッシュ。片手にはクリアファイル、もう片方には書類入りの封筒。足元の革靴がアスファルトに吸い込まれるような感覚。ふと、ここで転んだらどうしようという恐怖がよぎる。だが、止まれない。
外に出た瞬間メガネが曇る異常な暑さ
湿度と気温が同時に攻めてくるあの感じ。まるで風呂場の中にいるような不快感。メガネはすぐ曇るし、汗が止まらない。走るうちにシャツが肌に張り付き、ズボンの裏地がぐしゃぐしゃになる。熱中症寸前でペットボトルの水を無理やり飲みながら、それでも役所を目指した。途中、信号待ちで隣に並んだ高校生に二度見される。司法書士も人間だ。汗だってかく。
汗だくで書類を守りながら走る元野球部
書類だけは濡らさないよう、懐に抱えて走った。まるで9回裏の守備、ノーアウト満塁で打球をキャッチしに行くような集中力。だが、現実はそんなにかっこよくない。スーツの中で熱がこもり、呼吸も荒くなる。昔はもっと走れたのに…と思っても、今の自分の脚力に頼るしかない。事務所には事務員さんひとり。責任は自分にある。気力だけで足を動かした。
なぜこの日に限って駐車場が満車なのか
ようやく役所に着いたと思ったら、まさかの駐車場満車。ぐるぐる回っている間にも時間が迫る。「これは試されてるな」と思った。仕方なく少し離れたコインパーキングに停め、そこからさらに全力疾走。この頃にはもう意識が朦朧としはじめていて、登記簿の文字すら見えにくくなっていた。それでも一歩ずつ前に進む。それしかなかった。
役所の窓口で起きた小さな事件
受付に滑り込んだのは、締切5分前。受付の女性が書類を手に取り、じっくり確認する。自分の心臓の音が聞こえるようだった。まさかの不備がないか、記載ミスはないか…すべての神経が一枚の登記申請書に集中する。そしてその時、彼女が口を開いた。「…もう少し早ければ、楽だったんですけどね」その一言に、全身の力が抜けた。
窓口職員の言葉にぐらっとくる
「もう少し早ければ」――その言葉は、まるで自分が怠けていたかのように聞こえた。実際には、汗だくで駆け込んできたわけだが、窓口の人にそれは関係ない。そういう理不尽を飲み込むのも、この仕事だと自分に言い聞かせる。でも、たまには「お疲れさまでした」くらい言ってほしかった。その一言が、明日も頑張る理由になるのに。
書類チェック中の沈黙がやたら長い午後
提出直後のあの沈黙が、どうにも苦手だ。書類を一つずつ指でなぞって確認されている時間が、体感で数倍に感じられる。自信があっても、過信はできない。どこかにミスがあったらすべてが台無しだ。ようやく「大丈夫です」と言われたときには、脱力して椅子に座り込みたくなった。真夏の午後、冷房の効いた役所のロビーが、地上で一番ありがたい場所に思えた。
無事提出完了それでも心が晴れない
書類は提出できた。間に合った。でも、心はすっきりしない。それどころか、体力と気力の大半を消耗しただけのような気分だった。だれにも褒められず、だれにも気づかれず、それでも自分は今日という一日を必死に走った。そんな仕事が司法書士には多い。たぶん、どの士業でも同じだろう。帰り道、自販機の前でしばらく動けなかった。冷えた缶コーヒーが唯一の救いだった。