なぜか誰にも言えないミスが増えていく
日々の業務のなかで、ちょっとした判断ミスや確認漏れはどうしても避けられない。だけど、それを誰かに打ち明けるというのが妙に難しい。司法書士という仕事柄、「しっかりしている人」と思われたいという気持ちが邪魔をするのかもしれない。昔から失敗を認めるのは苦手だった。元野球部時代、エラーしたら自分を責めるタイプで、誰かに励まされるより先にベンチで落ち込んでいた。その性格は今も変わっていない。
相談できない空気はいつの間にかできていた
気がつけば、失敗について話す機会そのものがなくなっていた。仕事が忙しいというのもあるし、「報告・連絡・相談」という基本を唱えている自分が、逆に相談しづらくなっている。事務員さんに弱いところは見せたくない。だから、ちょっとした書類の書き間違いも、登記申請の出し直しも、全部ひとりでなんとか処理してきた。気づかれないように、静かに片付けているつもりだけど、胸の奥にはいつもざらっとした後味が残る。
言い訳に聞こえるのが怖いという気持ち
誰かに「実は間違えたんだよね」と話そうとしたとき、頭に浮かぶのは「この人、言い訳してるな」と思われるのではという恐怖だ。それなら黙っていた方が楽だし、すぐ次の仕事に集中した方がマシ。そう思って、また何も言わずに黙々とやる。でも、本当は説明したい気持ちもある。どうしてそうなったのか、背景を理解してほしいという気持ちも。ただ、その葛藤が話す勇気を奪っていく。
それでも誰かに聞いてほしかった本音
正直に言えば、「そんなの誰でもあるよ」とか、「大丈夫だった?」と、ただ聞いてほしかっただけなんだと思う。解決してほしいわけでもなく、慰めが欲しいわけでもなくて、失敗を共有して、少しだけ軽くしたかった。けれど、そんな相手はなかなかいない。昔は先輩や同期と飲みに行ったときにぽろっと話せたけど、今は一人事務所。独身の身で、帰っても誰もいない。だからこそ、心の中にしまったままの失敗が増えていく。
事務所の中では常に“強いふり”が求められる
開業して十数年、誰かに頼ることを覚える前に、責任を一身に背負う癖がついた。独立している以上、強く見せないと信用されない。そんな意識が、いつの間にか自分を縛りつけていた。事務員にも気を遣わせたくないから、どれだけしんどくても「大丈夫そうな顔」をして、平然とした態度を取る。だけど本音は、もう少しだけ弱音を吐いてみたい。
雇う側としてのプレッシャー
一人でも人を雇うというのは、それだけでプレッシャーだ。給料を払わなければいけない責任、安定して仕事を確保しなければならない義務。その中で自分がミスをしたらどうなるか――そう考えると、失敗を口に出す余裕なんてない。だから、たとえ自分が手続きの締め切りを1日間違えても、それを飲み込んで次の対応に走るしかない。
事務員の前で弱音を吐けないもどかしさ
事務員さんには感謝している。でも、彼女に「今日ミスしちゃってさ」とはなかなか言えない。なんとなく、職場の空気がぎくしゃくしそうで、余計な不安を与えてしまいそうで。それに、こちらが気を抜くと、相手も気を抜くんじゃないかという不安もある。本当はもう少し対等に話せたら楽なんだけど、それができない現実もある。
でも実は一番話したいのは身近な人だった
一番身近にいる人と、一番大事な話ができない。これは地味にきつい。たとえば、「印鑑証明の添付忘れてた」なんてミスを、「あ〜やっちゃったね!」って笑い飛ばせるだけで、どれだけ気が楽になるか。でも現実は、そんな会話の場すら作れていない。気を使いすぎてしまう自分にも、ちょっと嫌気がさしている。
失敗を咎めるのは自分自身ばかり
誰にも責められていないのに、自分の中では「またやってしまった」という声が響く。たぶん、他人が何も言わなくても、自分の中にいる“完璧主義の鬼コーチ”みたいな存在が、ずっと叱り続けているんだと思う。昔、ノーエラーを目指して白球を追っていたあの頃のクセが抜けない。
夜になると浮かぶ「やらなきゃよかった」が消えない
夜、布団に入ってからが一番つらい。「あのとき、ああしておけば…」という後悔がぐるぐる回り始める。特に、直接相手に迷惑をかけてしまったようなミスは、本当に忘れられない。相手はもう気にしてないかもしれない。でも、自分の中では「失敗者」のレッテルを貼ったまま、翌朝を迎えてしまう。
忘れたふりをして翌朝も笑顔を作る
朝になると、いつものようにスーツを着て、笑顔で「おはようございます」と挨拶をする。でもその笑顔の裏側には、昨夜の後悔が静かに残っている。それを隠して仕事をすることにも慣れてしまった。慣れって怖い。本来なら「反省→共有→再発防止」と進むべきプロセスが、「反省→黙る→自己処理」で終わってしまっている。
共有できない苦しさは積もっていく
人に話せない失敗が蓄積すると、だんだん自分に対して優しくなれなくなる。誰かに「そんな日もあるよ」って言われるだけで救われることがあるのに、それがないと、自分を責める材料ばかりが増えていく。そして、気がついたときには「何もかも自分のせい」と思い込んでしまっている。
失敗が失敗のまま終わる孤独
共有されない失敗は、検証されずに終わる。ただの恥ずかしい記憶として、自分の中に居座り続ける。誰かと話して「じゃあ次はこうしよう」と言い合えたら、もっと建設的に考えられるのに。その機会を失うと、失敗はただの“負債”になる。誰にも価値を生まない、孤独な傷跡になってしまう。
本当は「あるある」って言ってほしいだけなのに
自分のミスを誰かが「あるあるだよ」って言ってくれるだけで、どれだけ気が楽になるか。実際、他の司法書士さんと話していて、「それうちでもあったわ」と言われただけで、救われた気持ちになったことがある。結局、人って“共感”を求めてるんだなと、その時に痛感した。
ある日ポロッとこぼした一言が救いになった
ある研修の帰り道、同業者と駅まで歩いていたときのこと。「最近、登記の修正ばっかりしててさ…」と冗談っぽく話したら、相手が「わかるわかる、うちもこないだやらかしたよ」と返してくれた。その瞬間、張り詰めていたものがふっと緩んだ気がした。やっぱり、話してみるものだ。
見知らぬ同業者の反応が思いがけず優しかった
特に親しいわけでもなかったその人が、軽く笑いながら「そんなの誰でもあるよ」と言ってくれた。それが嬉しかった。自分だけがミスしてるわけじゃないんだと知ることができた。相手は何気ないつもりだったかもしれないけれど、その一言が、その日の疲れをすべて洗い流してくれたように感じた。
言ってみると案外みんな同じように悩んでいた
その後、何人かの同業者と話す機会があったが、みんなそれぞれミスをして、反省して、でも乗り越えているということがわかった。失敗は誰にでもあるし、完璧な人なんていない。だからこそ、「言える環境」って大事なんだなと思うようになった。今はまだ、完全にはできていないけれど、少しずつ“話せる自分”を取り戻したい。