また来ますねの呪いが今日も胸に刺さる
「また来ますね」と言われた日の午後は決まって落ち込む
地方で司法書士をしていると、依頼人とのやり取りはどこか淡々としていて、でも一瞬だけ心が通じるような瞬間がある。「また来ますね」。その一言に希望を抱いた午後ほど、事務所の空気がしんと冷える。忙しさの中にあっても、人との関わりに飢えているのかもしれない。事務所に残る湯呑みのあとや、手土産の包み紙を見るたびに、あの人はもう来ないかもしれないという現実がちらつく。
忙しさの合間に訪れる小さな希望
登記の書類を詰めて、登記原因を整えて、法務局に提出して。毎日がその繰り返しだ。そんな日常のなかで「また来ますね」と言ってくれる依頼人は、ほんの一筋の光みたいな存在だ。相談のあと、少しだけ笑って帰っていくその後ろ姿に、何か救われた気持ちになる。でもその希望は、ふとしたことで裏切られる。音沙汰がなく、電話も繋がらず、手紙の返事もない。こちらが勝手に期待しただけ、と言われればそれまでだ。
名刺を渡しても連絡は来ない
名刺交換のとき、少しだけ丁寧に折り目をつけて、机の端に置いておく。電話が鳴れば、その名刺をすぐ手に取れるように。けれど、たいていその名刺は月日が経つほどに黄ばみ、埋もれていく。「また来ますね」はたぶん、悪気なく言われる。でもこちらはそれを真に受けてしまう。何度も経験してるのに、学ばない。名刺一枚に込めた祈りは、たいてい報われない。
それでも玄関先で頭を下げてしまう自分
お見送りのとき、つい頭を下げてしまう。「またお待ちしてます」と声をかけるのが癖になってる。相手が「また来ますね」と返してくれると、その場はなんとなく綺麗に収まる。でも、玄関が閉まったあとに思う。「来ないよな、きっと」。自分がどこかで、他人の言葉にすがっている。事務所の玄関に背を向けて戻るとき、虚しさと疲労が一気に押し寄せる。
本音を言えば二度と会えないって知ってる
長くこの仕事をしていれば、「また来ますね」が社交辞令だということくらい、とうに知っている。でも知っているのと、受け入れられるかは別の話だ。気配りも丁寧で、少し世間話までできた依頼人ほど、なぜか二度と連絡が来ない。何度もある。何度も経験してるのに、また今日も「来るかもしれない」と期待してしまった。
最初から分かっていた未来予想図
初回相談で感触がよくても、「また今度お願いします」と言われたら、それが最後だと思っていい。逆に、そっけなく帰っていった人のほうが、後日しれっと戻ってきたりする。人の心理は複雑で、こちらが思っている以上に、向こうも気を使っている。「また来ますね」は、断る代わりのやさしさだと、何度自分に言い聞かせたことか。
あの「また」の裏にあるもの
たとえばスーパーでレジを済ませたあと、店員さんに「またお越しください」と言われる。それに深く反応する人はいない。でも司法書士の場合、関係性が少しだけ濃くなる。「また」という言葉が現実味を帯びる。そして裏切られる。あの一言がなければ、こんなにも引きずらなかっただろうに。
自己防衛としての期待値コントロール
最近は、言葉を聞いても受け流すようにしている。「また来ますね」と言われても「そうですね、いつでも」とだけ返すように。期待しないことで、自分を守っている。でも本音では、どこかで待ってしまっている自分がいる。期待しないと決めた時点で、少しだけ心がすさんでしまうのも事実だ。
司法書士という職業が「一期一会」を強要してくる
司法書士の仕事は、基本的に一回限りの取引で終わる。登記が完了すれば、依頼人との関係も終了することが多い。だからこそ、一人ひとりの出会いに対して、こちらは必要以上に気持ちを込めてしまう。まるで野球部時代の一試合一試合のように、「この一件に全力を注ごう」と思ってしまう。でも、相手はそんなこと気にしちゃいない。
仕事は終われば関係も終わる
決済が終わり、登記も完了、完了通知を出したら、それで業務終了。こちらとしては一区切りの達成感があるけれど、そこには一抹の寂しさもある。まるで、試合後のグラウンド整備のような気分だ。静けさがやってきて、達成感と空虚感が同時にやってくる。
それが分かっていても寂しい
終わると分かっていても、やっぱり寂しい。名刺入れのすみっこにしまった一枚の名刺を、ふとしたときに眺めてしまう。笑って話してくれた人、感謝の言葉をくれた人。あの瞬間はたしかに存在した。でも今はもう、何の音沙汰もない。
書類よりも感情の後始末が面倒
登記書類は期限があれば、法務局が受け取ってくれれば、仕事は終わる。でも、こちらの感情はどこにも提出先がない。愚痴を言えば「また始まった」と事務員に苦笑されるし、SNSに書くわけにもいかない。誰にも処理されない感情が、いつのまにか山積みになっていく。
それでもまた来てくれる人がたまにいる
そんな日々のなかで、「あのときはありがとうございました」と本当に再訪してくれる人がいる。年に数件、いや数人。それだけで救われる気持ちになる。信じてたわけじゃないのに、来てくれる。そんな人に出会うと、やっぱり「また来ますね」を信じたくなってしまう。
信頼は仕事量じゃなく、間の沈黙で決まる
面談中、沈黙の時間があっても慌てない。何も言わずに相手の目を見て、うなずくだけ。それができたとき、相手はこちらを信頼してくれる気がする。「また来ますね」ではなく、「またお願いしたいです」と言ってくれる。少しの違いだけど、その言葉が胸に刺さるときは、前より痛くない。