書類を提出したはずなのに心が重い
午前中、ようやく仕上げた登記の書類を法務局に提出し、控えをもらって事務所を出た。その瞬間は「やっと終わった」とホッとするのだが、歩き出すとすぐに妙な重さが胸にのしかかる。書類にミスはなかったか、印鑑証明の有効期限は大丈夫だったか……そんな不安がひたすらぐるぐると回り続ける。司法書士として慣れているはずの業務でも、安心感がすぐには訪れないのが現実だ。
書類は通ったけれど何かが引っかかる
形式上の問題はクリアしている。補正の電話が来る気配もない。でも、どこかに「何か」が残っているような気がして仕方がない。これは経験値を積んだ者の慎重さとも言えるけれど、正直、毎回この感覚が続くのは精神的にキツい。おそらく、自分が完璧でありたいという妙なプライドと、自分の価値がこの書類に詰まっているという歪な意識のせいなのだろう。
小さな手続きにも疲れが染み込む
相続登記や住所変更といった一見シンプルな案件でも、精神的な摩耗は思いのほか大きい。ちょっとした地番の誤記、謄本の取り違え、それだけで全体が崩れてしまう。仕事そのものより、崩れた時のダメージを想像してしまう癖が、疲労感を増幅させる。しかもその疲れを共感してくれる相手がいないことが、地味に堪える。
法務局の窓口対応に感じる微かな違和感
職員の方々は丁寧に対応してくれる。でも、たまにこちらが不備を恐れて説明を加えると「はいはい、そんなに心配しなくても」と言わんばかりの対応をされることもある。わかっている、こちらが過剰反応しているのだろう。でもこの仕事に対する「責任の重さ」を軽んじられたように感じると、ほんの少しだけ、心がすり減る。
「こんなことなら司法書士なんて」なんて思う日もある
帰り道、ふと自転車に乗った学生を見て、「あの頃の自分は司法書士になるなんて想像してなかったな」と苦笑する。資格を取ったときは、少なくともここまで心がすり減る職業だとは思っていなかった。報酬もそうだし、社会的な評価も微妙。なのに、なぜ自分はまだやっているのか。そんなことを考え出すと、帰り道がどんどん長く感じる。
帰り道のコンビニでつい手が伸びるもの
法務局の帰り道、必ず立ち寄ってしまうのがコンビニだ。特に甘いパンか、チョコレート。疲れている時は脳が糖分を欲しがると言うけれど、本当にそうなのだろうか。何か満たされない思いを、カロリーで埋めようとしているようにも感じる。結局そのせいで、帰ってからの自己嫌悪がまたひとつ増えるだけなのだが。
甘いものに頼るメンタル
「このチョコ一つでリフレッシュできるなら」と思って買う。実際、口に入れた瞬間は確かに少しほっとする。だけどそれも一瞬。甘いものに頼っても、根本の疲れや虚無感は解消されない。むしろ、その瞬間の快楽が終わったあとにくる反動の方が大きくて、自分の心の弱さにため息が漏れる。
「自分へのご褒美」がルーティンになっていく
頑張った日は「ご褒美」、イライラした日は「癒し」、気持ちが落ち込んだ日は「慰め」。いつしかどんな日にも理由をつけて甘いものに手が伸びるようになっていた。こうして体重も増え、健康診断の数値に驚き、後悔する。だけどやめられない。それだけ日々、どこかで満たされていないのだろう。
そのチョコレート、本当に必要?
レジに並ぶとき、ふと立ち止まって自分に問いかける。「本当に今、これが必要なのか?」と。けれどその問いには答えずに、会計を済ませてしまう。必要かどうかではなく、「ないとやっていけない」と思っている自分の弱さに気づきながら、また包み紙を開ける。司法書士の帰り道は、そんな小さな戦いの連続でもある。
元野球部だった頃の自分を思い出す
ふと、帰り道の夕焼けを見ながら思い出すのは、高校時代のグラウンドだ。汗と泥にまみれて、毎日ただ夢中でボールを追いかけていた頃。理屈も不安もなく、体を動かして笑っていたあの時間は、今思えば宝物だった。あの頃の自分が今の自分を見たら、なんと言うだろう。少し恥ずかしく、少し切ない。
汗を流すだけで満足していたあの頃
野球部の練習は決して楽ではなかった。むしろ毎日がしんどかったし、先輩の理不尽さに悔し涙を流したこともある。でも、理不尽も含めて「成長できる苦労」だった。司法書士になってからの苦労は、何か違う。達成しても心が晴れないことが多い。努力しても褒められない。結果が出ても報われた気がしない。
達成感は数字じゃ測れなかった
あの頃、勝って泣いて、負けて泣いて。点数や勝敗だけじゃなく、「全力を出したか」がすべてだった気がする。今の自分はどうだろう。効率や報酬、期限といった外側の価値ばかり気にして、内側の熱を忘れてしまっていないか。帰り道、ふとキャッチボールがしたくなった。誰も相手はいないけれど。
独身という選択肢の重さと軽さ
独身であることに対して、普段はあまり深く考えないようにしている。だけどこうして一人で帰る道の途中、ふと「誰かとこの道を歩けたら」と思う瞬間がある。家庭を持った友人たちの話を聞くと、自分にはない風景がそこに広がっていて、取り残されたような気分にもなる。
帰り道が誰とも共有されない孤独
仕事で嫌なことがあっても、それを誰かに話すわけではない。帰っても暗い部屋、電子レンジとテレビだけが迎えてくれる。誰かに「おかえり」と言ってもらえる日々があれば、少しは違うのだろうか。そう思って婚活アプリを開いたりもしたが、結局会話の最初でつまずいてしまう。
気楽さの裏にある静かな虚無感
独身は自由で、誰にも縛られずに生きられる。それは確かにメリットだ。でもその気楽さは、時に「責任の所在をすべて自分が背負う」という孤独でもある。疲れても倒れても、誰も助けてはくれない。自分で立って、自分で前を向く。それを繰り返しているうちに、心がすり減っていく。
誰かがいれば違ったかもしれないけれど
別に誰かに依存したいわけじゃない。でも、「今日はつらかったね」と言ってくれる誰かがいたら、それだけで救われることもあるのかもしれない。そう思うたびに、自分の選択が正しかったのかを振り返ってしまう。そしてまた、考えるのが面倒になってテレビをつける。それが現実だ。