朝の来客と古びた通帳
年配女性の不安げな相談
その朝、事務所のドアがギィと音を立てて開いた。入ってきたのは七十代と思しき小柄な女性。手には、くたびれた赤い銀行通帳を握っていた。目の下にはうっすらとクマがあり、寝不足がうかがえた。
「息子が、いなくなったんです。通帳だけ残して……」
彼女の声は震えていた。相談の背景には、ただの失踪ではない、何か違和感が漂っていた。
通帳とともに消えた息子
聞けば、息子のヨウスケは三日前から行方不明で、部屋にはこの通帳とメモ一枚が残されていたという。メモには、「預金は君のものだ」とだけ書かれていた。だが通帳の名義は、明らかに母親本人のものだった。
つまり、彼は自分の通帳ではなく、母親のものを持ち出して戻した。わざわざ意味深な言葉を添えて。それはまるで、誰かへのメッセージのように思えた。
失踪した男と残された痕跡
口座の名義は誰のものか
まず確認したのは口座名義だ。確かに女性の名義だったが、過去の取引履歴には見慣れぬパターンがあった。毎月決まって十万円ずつ引き出され、直後に別口座へ振り込まれている。
それが数年も続いていた。しかも、振込先はヨウスケの元勤務先と同じ金融機関にある口座だった。なるほど、これは偶然では済まされない。
不自然な引き出しのタイミング
直近の引き出しは失踪の前日。ATMから二十万円がまとめて引き出されていた。その後、足取りは完全に途絶えている。だが、通帳の履歴には、もう一つ奇妙な点があった。
午前9時に引き出されたはずの金が、11時には同じ支店の別口座へ「預金」として入金されていたのだ。移動が早すぎる。それはつまり、同一人物による操作の可能性が高い。
サトウさんの冷静な分析
数字に隠れたメッセージ
「これ、面白いですね」とサトウさんが言った。彼女は通帳の取引履歴を一行ずつ分析していた。「引き出し金額が、ある数字のパターンを繰り返してるんです。例えば十万、二十万、十五万……この順番、見覚えないですか?」
彼女の目が光る。「これは、ルパン三世のオープニングナンバーの秒数と一致しますよ」
まさかとは思ったが、彼女の推理はしばしば冗談のようでいて核心を突いてくる。
やれやれ俺の出番か
「やれやれ、、、」とつぶやいて、俺は椅子から立ち上がった。
こんなバカみたいな謎、普通はあり得ない。でも、現実に目の前にあるのだ。数字の並びに隠されたメッセージ、それが何かのヒントだとしたら――。
俺の仕事は法務だが、時々こうして事件の匂いに巻き込まれることがある。そして、だいたいの場合、巻き込んでくるのはサトウさんだ。
銀行での聞き込み調査
防犯カメラが捉えた意外な人物
銀行に問い合わせると、幸運なことに映像を確認できることになった。映っていたのは、帽子を深く被った中年男性。だが、明らかにヨウスケではない。
その男は、通帳と印鑑を使ってカウンターで手続きを行っていた。手馴れた様子だった。身元確認をどうやってすり抜けたのかが謎だったが、それ以上に、その顔に見覚えがあった。
帽子の男の正体とは
それはヨウスケの義理の兄だった。彼はかつて金融トラブルを起こし、家族とも疎遠になっていた。だがここへ来て、なぜ母親名義の通帳を使って現金を動かしていたのか。
ヨウスケがその事実に気づき、義兄に対して何らかの行動をとった。そして逆に、姿を消すことになったのではないか。少しずつ、全体の構図が見えてきた。
親族間の秘密と金の流れ
養子縁組の記録が語る過去
登記簿を確認していて、一枚の古い書類が目に止まった。十年前、母親とヨウスケの兄との間に、形式上の養子縁組がなされていたのだ。
つまり、通帳の名義上は母親だが、実質的に管理していたのはその兄。ヨウスケが定期的に引き出し、兄に送金していた構図は、完全な隠れた扶養義務のような形だった。
兄と弟の逆転劇
しかし、ある時を境にその送金が止まっていた。ヨウスケが反旗を翻したのだろう。兄から母を取り戻すために。だが、その過程で兄と対立し、追い詰められた。
通帳に残されたメッセージは、「これはもう君のものじゃない」というヨウスケの最期の抵抗だったのかもしれない。
真相と司法書士の一手
預金通帳が示した動機
通帳の履歴とメモの筆跡を照合し、法的な手続きを整えて、名義の真正を証明した。同時に、兄が無断で資金を動かした証拠も提出した。銀行の協力もあり、調査は一気に進んだ。
司法書士として、俺ができるのは事実を形にして残すこと。それだけで充分なときもある。
封筒の中の委任状
事件解決後、母親が事務所を再訪した。封筒を差し出し、中にはヨウスケの字で書かれた委任状が入っていた。
「いざという時は、この人に相談して」そう書かれていた。
その日、久々にサトウさんがほんの少しだけ口角を上げたのを見た気がする。
事件の後と静かな日常
サトウさんの淡々とした一言
「結局、通帳ってのは人間関係の写し鏡ですね」
サトウさんは、書類をホチキスで綴じながら言った。その口ぶりはまるで、サザエさんが波平の説教を聞き流すときのようだった。
俺は机の下のコンビニ弁当を見て、ため息をついた。やれやれ、、、次は失踪じゃなくて、ちゃんと生きてる依頼人がいい。
机の上の使いかけの修正テープ
気づけば、机の上の修正テープが空になっていた。書類の修正を繰り返した証だ。事件も、人間関係も、白く塗りつぶせるなら簡単なんだけどな。
だが、そうはいかないからこそ、俺たちの仕事はなくならない。今日はこれで終わり。明日はまた、新しい通帳と謎がやってくるかもしれない。