見た目だけで判断されるつらさ
「若く見えますね」――この言葉、以前は嬉しかった。でも最近はちょっとしんどい。鏡を見れば、目の下のクマもほうれい線も隠せなくなってきたのに、なぜか周囲からは「元気そう」「まだまだ若いね」なんて言われる。自分の中では、疲れがにじみ出てる感覚があるのに、そう見られないギャップがますます心を重くする。45歳という年齢。身体も心も、20代の頃とは違う。だけど「見た目が若い」というだけで、元気に振る舞わなきゃいけない気がして、どこか無理してしまう自分がいる。
「若いですね」と言われるたびに感じるプレッシャー
「まだいけますね」と言われた瞬間、どこかプレッシャーを感じてしまう。元野球部で、若い頃は体力にも自信があった。それに、ずっと努力して老けないように気をつかってきた。だけどそれも、今では少ししんどい。そもそも、見た目で判断されるのは嫌なのに、見た目が若いという理由で“動ける人扱い”されることもある。たとえば役所や銀行でのやりとり、ちょっと面倒な案件をお願いされるとき、「若いから大丈夫でしょ?」なんて軽く言われると、心の中では「いやいや、疲れてんだよ」と何度も叫んでいる。
元気に見えるけど、内側はボロボロ
朝起きるのがつらい日が増えた。なのに、事務所に入ればシャキッとしなきゃいけない。「先生、今日も元気そうですね」と言われれば、「いやぁ、まぁ」と笑って返す。でもその笑顔が、もう作り笑いになってるのが自分でもわかる。肩こりもひどいし、眼精疲労も抜けない。ひとりで事務所を切り盛りしてると、弱音を吐く相手もいない。唯一の事務員には気を遣ってるからこそ、表情だけでも“頼りになる上司”を演じてしまう自分が、もう正直しんどいのだ。
回復しない疲労感と、自己嫌悪のループ
土日にしっかり休んだはずなのに、月曜の朝からすでに疲れている。なぜか疲れが抜けない。かといって誰かに頼れるわけでもないし、仕事の締切は待ってくれない。そんな毎日に、「何やってんだ俺は」と思う瞬間がある。昔なら一晩寝れば元気になったのに。今は休んでも回復せず、疲れを感じたまま朝が来る。そんな体調にイライラして、自分を責める。自己嫌悪になる。負のループだ。でも、抜け出す方法も見つからない。
もう少し休みたいけど、休めない現実
「ちょっと休もうか」――この一言が、なぜか言えない。一人で司法書士事務所を運営していると、スケジュールを調整するのも気を遣う。事務員に任せられる範囲にも限度がある。お客さんとの予定、登記の期限、役所とのやり取り。どれも外せない。でも、自分の体調も限界に近づいている。頭では「倒れたら終わり」とわかってるのに、「でも今休んだら後が怖い」と考えてしまう。結局、また無理をする。悪循環の繰り返し。
司法書士という仕事が与える目に見えない疲労
司法書士の仕事は、傍から見れば「机に座ってパソコン打ってるだけ」と思われがちだけど、実際には神経をすり減らす場面が多い。登記の正確さを求められ、スケジュールもタイト。依頼者の人生がかかっている案件もあるから、責任の重さも大きい。だからこそ、表には見えない“気疲れ”が溜まりに溜まっていくのだ。
一日中座ってるのに、なぜかヘトヘト
外回りの少ない日でも、終業後にはぐったりしていることが多い。座っているだけのはずなのに、体は重く、頭もぼんやり。たとえば相続登記の一件でも、背景事情を確認しながら関係者の意向を汲んで、細かいチェックを何度も行う。ちょっとのミスも許されない。ミスを防ごうと神経を張り詰めてるから、そりゃ疲れる。でも、見た目だけじゃこのしんどさは伝わらないんだよなぁ。
人間関係のストレスは書類より重い
司法書士として避けられないのが、人との調整。依頼者、金融機関、法務局、行政書士や税理士など、関係者は多い。その中で気を遣い続けるのが本当にしんどい。特に最近多いのが「電話口で怒鳴る人」。直接話せば丸く収まることも、電話越しでは難しい。書類ならルールがあるけれど、人の感情にはルールがないから、余計に疲れる。書類の山よりも、人の気持ちの方がずっと重く感じることもある。
事務員がいても、孤独感は減らない
事務員がいてくれて本当に助かってる。でも、やっぱり経営者という立場の孤独は別物だ。最終的な判断はすべて自分。何かミスがあったときの責任も自分。事務員さんに弱音を吐けば不安にさせるし、励まされるのもなんだか気まずい。結局、一番きついことは誰にも言えず、心の中にしまってしまう。そしてまた、誰にも相談できないまま次の案件が始まる。
「先生」と呼ばれても心は擦り減る
「先生」と呼ばれると、少し背筋が伸びる。でもそれと同時に、ちゃんとしなきゃというプレッシャーもある。敬称に値する仕事をしなければ、と無意識に自分を追い詰めているのかもしれない。誰も「今日はつらそうですね」とは言ってくれないし、自分も言えない。「先生だから頑張って当然」――そんな空気が、心をじわじわ削ってくる。
元野球部だった自分から見える今のギャップ
若い頃の自分なら、今の自分を見て「だらしないな」と思ったかもしれない。高校では野球部で、日が暮れるまで白球を追っていた。その体力と気力が、今はもう遠い。あの頃は疲れたと言いながら、心のどこかで楽しんでいた。でも今の疲れは、どこかじんわりと痛く、悲しい。
体力には自信があったあの頃
真夏のグラウンドで、200球のノックを受けても平気だった。筋肉痛すら誇らしかった。そんな自分が、今は階段を上るだけで息切れしてる。悔しいけど、これが現実。健康診断でも、血圧やコレステロールに赤信号がつき始めた。これが「歳をとる」ということなんだろうなと、ようやく認めざるを得なくなっている。
もうノック100本とか無理です
笑い話にすることもあるけど、内心は結構ショックだった。たまに草野球に誘われても、「走るの無理だな…」と断ってしまう自分がいる。かつての自分からは想像もつかないような姿。でも、無理に若いふりして怪我したら笑えない。それでも、「昔はさ」と話す自分が、どこか情けなくて、ちょっとだけ涙が出そうになる。
動ける身体より、今欲しいのは休息
無理して動ける身体よりも、しっかり眠れて、ちゃんと休める日常の方が今は大事。いつからか「休むこと」に価値を感じるようになった。でもそれが、なかなかできない。気持ちだけが焦って、身体がついてこない。そんなとき、ふと「もう少し若かったら」と思う。でも、時間は戻らない。せめて今を労わるしかない。
疲れているけど辞めない理由
これだけ愚痴を書いても、じゃあ辞めるかと言えば、答えは「NO」だ。毎日しんどくても、やっぱりこの仕事には意味があると思ってる。誰かの不安を解消する役目を担えている実感。ひとつの登記が終わったときの安堵。仕事には仕事の報酬だけでなく、やりがいが確かにある。
頼られるのは正直うれしい
「先生のおかげで助かりました」――この言葉だけで、1週間の疲れが少しだけ軽くなる。言葉ってすごい。誰かに頼られ、信頼される。その感覚が、他の仕事では味わえないからこそ、やめられない。大変だけど、やっぱり誰かのためになってるんだと実感できる瞬間がある限り、この仕事を続けていこうと思える。
モテないけど、感謝の言葉には弱い
結婚もしてないし、特別モテた経験もない。でも、お客さんからの「ありがとう」があれば、それで十分な気がしてくる。…いや、十分とまでは言えないけど(笑)。でもこの年齢になって、誰かに感謝される仕事に就いているというのは、少しだけ誇れる部分かもしれない。たとえプライベートが荒れ気味でも、仕事で誰かを助けられている。それが今の自分を支えている。
仕事にしがみつく理由を自分で探している
疲れてる。しんどい。だけど、仕事がある。仕事に意味がある。そんな風にして、日々自分に言い聞かせながらなんとかやっている。これが“踏ん張る”ってことなんだろう。誰かに褒めてほしいわけじゃない。でも、同じように頑張ってる人にだけは、伝わってほしい。「今日もおつかれさま」って。