報われなくても誰かのためにと思ってしまう自分が面倒になるとき

報われなくても誰かのためにと思ってしまう自分が面倒になるとき

気づけばまた人のために動いている自分に疲れる

自分でも気づかないうちに、誰かの手伝いやフォローに回っていることがある。頼まれたわけでもないのに、「このままだと相手が困るかもしれない」と勝手に想像して動いてしまう癖がある。昔からそうだった。部活でも職場でも、気づけば「おせっかい係」になっている。周りからは「助かるよ」と言われるけれど、自分の仕事が押し出されて、帰るのはいつも遅くなる。ある日、ふと気づく。「これ、自分は誰のためにやってるんだっけ?」と。気持ちばかりが先走って、体も心も置いてけぼりになっていた。

善意が悪意にすり替わる瞬間が怖い

人のために動いたはずなのに、思い通りの反応が返ってこないと、心の中に黒い感情が生まれる。「なんでお礼も言わないんだろう」とか、「こっちが損してばっかりじゃないか」とか。それってまさに、善意が悪意に変わる瞬間だと思う。こちらが勝手に期待して勝手に傷ついているのに、なぜか相手を責めたくなる。そんな自分が嫌になるし、何より情けない。本当に相手のために動いたのなら、見返りを求めるべきじゃない。それはわかっている。けど、人間ってそんなに器用じゃない。気持ちの整理がつかないまま、また同じようなことを繰り返してしまう。

「ありがとう」の一言に依存してしまう自分

たった一言、「ありがとう」がほしくて頑張っていることに気づくときがある。言ってしまえば、それが原動力になっていたのかもしれない。大学時代、ゼミの発表資料を全部まとめて作っていた時期があった。誰も気づいてくれなかったけど、発表がうまくいった帰りに後輩の一人が「助かりました」と言ってくれて、それだけで報われた気がした。でも、社会人になってからは、そんな一言すらない場面が増えた。ありがとうがないと動けなくなる自分がどんどん小さく見えて、自己嫌悪に陥る。気づけば「評価されたいだけなんじゃないか」と自問自答するようになった。

やりがいと承認欲求の紙一重

司法書士という仕事も、人の人生の節目に関わるから、やりがいはある。でもそのやりがい、実は承認欲求と隣り合わせなんじゃないかと思うときがある。「この人に任せてよかった」と言ってもらいたい。それが叶わないと、途端にモチベーションが下がる。本当の意味でのやりがいって、自分の中から湧き上がるもののはずなのに、気づけば外側の評価に依存してしまっている。人のためにという大義名分の裏に、自分の存在価値を確かめたいという気持ちが隠れている。それが見えてしまうと、一気に気持ちが冷める。だからこの仕事、たまにすごく苦しい。

無償で動いた後に押し寄せる虚無感

何も見返りを求めないで動けたと思った日の夜に、ふと、強烈な虚無感が襲ってくることがある。昼間、相談者に親身になって対応した。でも帰り際、「ありがとうございました」の一言もなかった。仕事だと割り切ってるつもりなのに、心のどこかで「ちょっとは何か言ってくれても…」と思ってしまう自分がいる。無償のつもりが、実は「無言の見返り」を求めていた。そしてそれが得られないと、心がカラカラになる。積み重なっていくと、「もう誰のために頑張ってるのかわからない」と、投げ出したくなる。

感謝されないことへの怒りが自分を苦しめる

怒りの矛先が相手に向いているようで、実は自分に向いている。自分で勝手に「良かれ」と思ってやって、勝手に落ち込んで、最後は自分を責める。相手に怒っているようで、「なんでまたこんなことしちゃったんだろう」と自分を責めてる。そういうのって、疲れる。たとえば、事務員がやるべきだった書類整理を手伝った日。忙しそうだったから手を出したのに、結局「助かりました」もなく終わった。別に感謝がほしくてやったわけじゃない。でも、どこかで「当然」扱いされると、自分が透明人間になったような気持ちになる。

「そんなつもりじゃなかった」が心の声

「そんなつもりじゃなかったのに」が、口癖になりそうなほどよく心の中でつぶやいている。誰かのために動いたのに、あとでモヤモヤするのは、「相手のため」と「自分の満足」がごちゃ混ぜになっていた証拠。そもそも、他人に期待しすぎているのかもしれない。たとえば、手続きのサポートをしても、感謝どころか「それだけ?」と言われたこともある。そういうとき、「そんなつもりでやったわけじゃない」と思っても、もう後の祭り。感情の処理が追いつかず、ぐったりする。人のために動きたい気持ちは本物なのに、それが自分を苦しめてしまう矛盾がある。

優しさが搾取される時代にどう向き合うか

昔なら「情けは人のためならず」と言われたものだが、今の時代は「情けは搾取されるだけ」という場面もある。特に士業の世界では、「無料でちょっと教えてください」が日常的に飛んでくる。それに応えてしまうと、ずっと無料のままだったりする。断るのも勇気がいるし、応じれば負担が増える。その板挟みで消耗する。優しさが裏目に出る時代、どうやって自分を守ればいいのか。線を引くことができない自分が、ますます面倒になってくる。

自分を律しすぎるのはもうやめたい

「自分が我慢すれば丸く収まる」と思ってしまう癖がある。でも、それは本当に正解なんだろうか。気づけば、自分の気持ちを後回しにすることに慣れてしまっている。たとえば、休日に急な対応を頼まれても、「しょうがないか」と引き受けてしまう。でも帰宅後、そのことばかりが頭をよぎって、休んだ気がしない。自分に優しくできないまま、人に優しくするのは限界がある。そろそろ、自分の中の「律しすぎる自分」と向き合わないといけない時期かもしれない。

境界線を引けないのは「いい人」を演じてきたから

「断ったら嫌われるかも」「冷たい人だと思われたくない」という気持ちが根底にある。だから、無理をしてでも応えてしまう。でも、それって本当に「優しさ」なんだろうか。昔、野球部でもそうだった。レギュラーじゃなかったけど、グラウンド整備や球拾いを誰よりも真面目にやった。誰かの役に立ちたかった。でも今思えば、それは「居場所を失いたくなかった」だけだったのかもしれない。いい人を演じ続けるのは、しんどい。

期待されると断れない性格の行きつく先

「頼れる人」と思われると、プレッシャーになる。でも、期待されることに慣れてしまって、「断る」という選択肢が見えなくなってくる。司法書士として相談を受けるたび、「これぐらいやってあげないと」と思ってしまう。そして気づけば、自分の時間はどんどんなくなっていく。事務所を一人で回していると、余計に「自分が何とかしなければ」という思いが強くなる。そうやって限界まで抱え込んで、疲れ果てた夜、ふと「なんのためにやってるんだっけ」と考え込んでしまう。

それでも誰かの役に立ちたいという矛盾

もうやめようと思っても、やっぱり誰かの「ありがとう」や「助かりました」に救われる瞬間がある。それがある限り、この矛盾とは付き合っていくしかないのかもしれない。誰かのためにと思って動いたことが、たとえ報われなくても、ほんの少し誰かの心を軽くしているなら、それでいい。そんな風に、自分を納得させている部分もある。矛盾を抱えながら、それでも誰かの役に立ちたいと思ってしまう。それが自分なのかもしれない。

仕事の意味と向き合う静かな夜の独り言

夜、事務所で一人書類を整理しながら、ふと考える。「この仕事、あと何年続けるんだろう」「誰のためにやってるんだろう」。考えても答えは出ない。でも、不思議と辞めたいとは思わない。むしろ、誰かの人生の節目に関われるこの仕事に、誇りを感じている自分もいる。矛盾だらけだけど、それでも今日も誰かの役に立てたのなら、意味があったと思いたい。そう思いながら、明日の準備をしている。

自分を大切にすることが人のためになるという発想

最終的に思うのは、自分をちゃんと大切にできてこそ、他人にも優しくできるということ。無理して人のために尽くすより、自分の心と体を守りながらできる範囲でやっていけばいい。それが結果的に、長く人の役に立つことにつながるのかもしれない。優しさを使い果たして燃え尽きる前に、自分を労わることも忘れたくない。報われなくても誰かのためにと思ってしまうなら、せめてその「誰か」に自分自身も含めてあげたい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。