おしゃれがわからなくなった日々

おしゃれがわからなくなった日々

おしゃれがわからなくなった日々

かつてのおしゃれはどこへ行ったのか

昔は「このジャケット、いい色ですね」と言われたこともある。学生時代、彼女と買い物に行って「これ似合うんじゃない?」と選ばれた服を嬉しそうに着ていた自分がいた。でも今はどうだ。服屋に入る気力もなければ、何が似合うのかもさっぱりわからない。気づけば同じようなYシャツとスラックスばかりがクローゼットに並ぶ。あの頃の自分と今の自分が、まるで別人のようだ。

スーツを着る意味が薄れてきた

昔は「スーツ姿=仕事モード」と、身も心もシャキッとするものだった。でも、毎日同じような手続きと、ルーチンワークが続く中で、スーツはただの制服になってしまった。季節の変わり目にも気を遣わず、着古したジャケットを着て出勤。ネクタイの色を変える余裕すらなくなり、清潔感よりも「今日もとりあえずこなせればいいや」という気持ちが優先されている。

ネクタイが窮屈に感じた瞬間

ある日、車の中でネクタイを結び直していたとき、不意に「なんでこんなに首が苦しいんだろう」と思った。まるで、息苦しさの象徴のようだった。おしゃれどころか、着ること自体がストレスになっていることに気づいた。昔はそれなりに選んだ色だったのに、今では百均のクリアケースに無造作に放り込まれている。

鏡に映る自分に違和感がある朝

朝、洗面所の鏡に映った自分がふと他人に見える。髪のセットもせず、無表情で口角が下がった顔。これで「信用第一の司法書士です」と言っても説得力がない。見た目を整える以前に、自分自身が何をどうしたいのか、そこがぼんやりしてしまっている。そんな朝が、もう何年も続いている気がする。

司法書士という仕事と見た目の関係

司法書士という職業は、派手さとは無縁だ。それでも、第一印象は重要。とはいえ、見た目ばかり整えていても実務ができなければ意味はない。だからこそ、どこまで気を配ればいいのか、その境界が曖昧になる。そして曖昧のまま、手を抜くようになる。

スーツは信用の道具か単なる制服か

「先生って、ちゃんとしてますね」──そう言われるのは、仕事ぶりじゃなく、清潔感ある服装に対してだったりする。けれどもそれが毎日のルーティンになると、「スーツを着る=戦う準備」だったはずが、気づけば「とりあえず着とけ」になっていた。信頼を得るための服が、ただの作業服になってしまっている。

依頼者は服装を見ているのか

登記の相談に来た依頼者の目線が、意外とスーツのシワやシャツのボタンに向いていることに気づくと、ハッとする。内容よりも「この人に任せて大丈夫そうか?」を、外見で判断されている瞬間だ。だからといって気合いを入れてコーディネートしても、相手が気づくかどうかはわからない。

法務局の職員は誰も気にしていない

一方で、法務局のカウンターでは、どんな格好をしていようが登記が通るかどうかが全てだ。そこに洒落っ気など必要ない。だから余計に、どこまでが「必要なおしゃれ」なのか見失ってしまう。誰も見ていないようで、誰かには見られている。その曖昧さがやる気を奪っていく。

自分だけが気にしていたという虚しさ

あるとき、思い切ってワイシャツを新調していった。けれど誰からも何も言われなかった。事務員も気づかず、依頼者もスルー。むしろ、書類のミスを指摘された。それが妙に空しくて、「もういいや」と思ってしまった。おしゃれって、誰かのリアクションがないと継続できないものだと痛感した。

事務員とのおしゃれ感覚のずれ

唯一の事務員は30代の女性。彼女の服装はさりげなく今っぽい。僕はそれが羨ましくもあり、疎ましくもある。相談せずとも「先生、それはないです」と笑われることもあり、おしゃれに対する自信はますます失われていく。

「先生、それ流行ってないですよ」

夏にポロシャツを着ていった日、「その色、今はちょっと…」と事務員に軽く言われた。深い意味はなかったのだろうが、その一言がズシンと響いた。別に流行を追いたいわけじゃないけれど、古臭いと思われるのもなんだか情けない。

気づかないうちに時代に取り残される

ファッション雑誌も読まなくなったし、テレビも見ない。SNSは業務連絡でしか使わない。だから、時代の流れがまったくわからない。取り残されているという自覚もなくなっていたことに、誰かの一言でようやく気づくことになる。

若者のセンスにただ戸惑う日々

法務局の若手職員のファッションが、どうも理解できない。ダボっとしたパンツ、短い丈のジャケット、奇抜な色。昔なら「だらしない」と思ったものが、今は「それが今っぽい」らしい。ついていけないし、ついていこうとも思わない。でもそのギャップが、日々の疲れをさらに深めていく。

ふとした瞬間に感じる寂しさ

誰のためにおしゃれしていたのか、もうわからない。仕事のため?誰かに見てもらうため?それとも、ただの自己満足?何かを選ぶ気力が湧かないのは、誰にも見られていないと感じるからだろう。鏡の中の自分に語りかけても、返事は返ってこない。

誰かのためにおしゃれしたい気持ちが消えた

昔は、デートの前に時間をかけて服を選んだ。どれが似合うか、どんな印象を持たれるかを考えながら。でも今は、誰の目も気にしない。いや、気にされていないと勝手に思い込んで、心を閉じているのかもしれない。その無関心が、自分への興味も奪っていく。

「見られていない」生活の長さ

見られる緊張感がない生活が長くなると、気が緩む。緩みがだらしなさになり、だらしなさが自己否定につながる。別に誰も責めない。でも、自分が自分を見限っているような、そんな気分になる。仕事では「先生」と呼ばれても、心の中ではずっと迷子のままだ。

それでももう一度服を選んでみようか

おしゃれは自己満足でいいのかもしれない。誰のためでもなく、自分の気持ちを少しだけ上向きにするために、服を選んでみる。わざわざじゃなくていい。近所のスーパーに行くだけでも、シャツを一枚だけ変えてみる。そんな小さなことが、少しずつ日々を変えてくれる気がする。

自分を大切にする練習として

「おしゃれをしよう」ではなく、「自分を整えてみよう」くらいの気持ちでいい。髪を整える、シャツにアイロンをかける、靴を磨く。それだけで、自分に対する扱いが少しだけ丁寧になる。その積み重ねが、また誰かに向けた優しさに変わる気がしている。

「おしゃれしようかな」と思えた日のこと

ある日、ふとユニクロで鏡を見たとき、「このシャツ、意外と似合ってるな」と思った。誰に言われたわけでもない。ただ、自分がそう思えたことがうれしかった。それだけで、その日1日少しだけ胸を張って歩けた。そんな日が、また来るなら悪くない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓