家族になりたかっただけなのに報われない優しさがしんどい日もある

家族になりたかっただけなのに報われない優しさがしんどい日もある

家族という言葉にすがりたかった夜があった

司法書士という職業柄、人の戸籍や相続に触れる機会が多い。赤の他人の家族の話に深く関わるのに、自分はその輪の外。そんな矛盾に、ふとした瞬間に胸が締めつけられる。帰り道にコンビニで買った弁当を片手に、一人暮らしの家の玄関を開ける。明かりのない部屋、誰の気配もしない空間。それでも自分の人生をここまで進めてきた。その裏にあるのは、「誰かの家族になりたかった」という、叶わなかった願いだった。

仕事帰りのコンビニ弁当と空っぽの部屋

夕方になると、駅前のコンビニが混み始める。仕事終わりにスーツ姿の人々が列をなすなか、弁当と缶ビール、菓子パンを手にした自分が映る。家に帰れば、声をかけてくれる人も、晩ごはんを一緒に食べる人もいない。事務員の子には「先生っていつも同じ弁当ですね」と笑われるが、実はそれがちょっとした会話の支えになっている。ふと、誰かに「今日もお疲れさま」って言ってもらえたら、それだけで救われる気がする。

孤独と向き合う音は電子レンジの「チン」

帰宅して弁当の包装を外し、電子レンジに入れる。部屋はしんと静まりかえっていて、動いているのは電子レンジだけ。チン、という音が鳴るその瞬間だけ、なぜか胸にぽっかり穴が開く。野球部時代は帰宅すれば母が夕飯を用意してくれていた。あの頃は当たり前だった生活が、今ではどれほど贅沢だったか。たった一人で「おかえり」と言う声を待っている自分に、気づかないふりをするのが精一杯だった。

それでも明日は依頼者の前で笑う

どれだけ疲れていても、依頼者の前では笑顔でいなければならない。戸籍の相談、相続のトラブル、登記の確認。人の家族の「これから」を支えるのが司法書士の仕事だ。だけど、心のどこかで思ってしまう。「自分にも、誰かがいたら」と。そんな自分勝手な感情に負けそうになる夜もあるが、だからこそ依頼者の人生に敬意をもって接するようにしている。誰かの家族にはなれなくても、少しの安心を届ける存在ではいたい。

優しさが過剰になるときの自分が嫌い

「先生って、優しすぎるんですよね」と言われたことがある。事務員や依頼者に対して、つい何でも引き受けてしまう自分。それが時に自分自身を追い詰めていると分かっていても、つい「いいですよ」と言ってしまうのだ。優しさが自分を苦しめるとは思ってもいなかった。誰かと深くつながりたい、という思いが、変な形で仕事にもにじみ出ているのかもしれない。

頼られると断れない性分とその代償

ある日、事務所に飛び込みの相談者が来た。相続放棄の期限が明日に迫っているという、緊急案件だった。本来なら予約制だが、「困ってるなら放っておけない」と思ってしまった。結局その日、予定していた書類作成は深夜に持ち越し。翌朝までに仕上げ、眠い目をこすりながら出勤した。誰かに頼られるのは嬉しい。でも、その分自分の時間や健康が削られていくことを、もっと真剣に考えるべきだったと後悔する夜もある。

「いい人」止まりの人生に意味はあるのか

相談者に感謝されることはある。けれど、それが報われている実感に結びつくことは少ない。いい人、真面目な先生、仕事が丁寧。それは褒め言葉なのかもしれないが、どこか虚しい。「家族になりたい」と願ったあの気持ちは、こんなふうに仕事にすり替えられてしまったのだろうか。自分をすり減らしながら「誰かの役に立ちたい」と願う優しさが、どこかむなしく響く。

感謝されても残らないものがある

「ありがとう」の言葉は確かに嬉しい。でも、家に帰ればその言葉はもう聞こえない。冷めた風呂、脱ぎっぱなしの服、静まり返った部屋。その現実に直面したとき、感謝の言葉だけでは足りないのだと気づく。心の隙間に入ってきてくれる誰かがいなければ、どれだけ感謝されても、どこか空虚なままだ。そんな夜に、自分の優しさが報われる場所はどこなんだろうと考えてしまう。

仕事では信頼されるのに家では誰にも待たれていない

事務所ではたしかに頼りにされている。書類を整え、トラブルを未然に防ぎ、必要な説明をていねいにする。それはプロとして当然のことだ。でも、仕事が終わって帰る場所では、自分を待ってくれている人はいない。その事実が、たまにどうしようもなく寂しい。

電話が鳴るたび少し嬉しいと思ってしまう

スマホが鳴るたび、「誰だろう」と一瞬ときめいてしまう自分がいる。実際は取引先か、依頼者か、行政からの連絡だと分かっていても、つい期待してしまう。誰か個人的に自分を思い出してくれる人がいるのではないかと。でも、それはたいてい期待外れで終わる。そんな些細なことに一喜一憂している自分が、少し情けなく思えるときもある。

声が出る相手がいるだけでありがたい

人と話す時間がない日もある。事務員が休みの日や、依頼者と会わない日には、誰とも口をきかないまま一日が終わることもある。だから、スーパーのレジで「袋は要りますか?」と聞かれることすらありがたいと思う。声を出せる相手がいる。それだけで「社会とつながってる」と思えるなんて、ずいぶん寂しい話だ。

報酬よりも言葉が欲しかった瞬間

大きな案件が無事に終わった日、銀行に入金された報酬を確認したとき、なぜか心が動かなかった。嬉しいはずなのに、どこか冷めている。欲しかったのはお金ではなく、「先生、助かりました」「頼りにしています」といった、温かい言葉だったのだと思う。そう気づいた瞬間、自分がどれだけ人とのつながりに飢えているのか、痛感した。

独身司法書士が家族という言葉を手放すまで

たぶんもう、誰かの家族になることはないのかもしれない。そう思ったら、少し気が楽になった。執着せず、今ある縁に丁寧に向き合う。それだけでも、十分に意味のある生き方なのかもしれない。結婚だけが幸せじゃない。そう思えるようになるまで、ずいぶん時間がかかった。

期待をやめたら少し楽になるって本当か

誰かに期待することをやめたら、心が軽くなった気がする。誰にも頼られなくても、誰かの家族になれなくても、自分の存在には意味がある。司法書士として、人の人生の分岐点に関わる責任ある仕事ができるだけでも、ありがたいことなのかもしれない。とはいえ、時折ふと心が冷える夜もある。でもそれも、自分の人生の一部として、受け入れていくしかない。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓