帰ってきても誰もいないという現実
玄関の鍵を開けて部屋に入ると、ただ静寂が待っている。それはもう何年も続いている日常で、慣れてしまったようで、でもやっぱり慣れきれない。テレビもつけっぱなしにしていないと、時計の秒針の音がやけに耳に残る。司法書士という仕事柄、日中は人と話すことが多いはずなのに、いざ仕事を終えると、一気に無音の世界に落ちる感じがする。疲れた心に一言、「おかえり」と言ってくれる誰かがいたら、それだけでどれだけ救われただろうと、そんなことを思う。
電気のついていない部屋が教えてくれること
毎晩、事務所の明かりを消して、事務員さんに「おつかれさまでした」と声をかけたあと、自宅の玄関を開ける。暗闇が迎えてくれる光景にも、もう慣れたはずだった。でも、ふと疲れているときや気が抜けた瞬間、その「真っ暗」に心が吸い込まれそうになる。誰もいない、何もない部屋。ここに自分しかいないという事実が、心に重くのしかかる。「ただいま」と言ってみても、それは空気に溶けて消えるだけだった。
「ただいま」の相手がいない寂しさ
「ただいま」に対して「おかえり」と返してくれる人がいる。たったそれだけのやりとりが、こんなにも大きな意味を持つなんて、若いころは想像もしていなかった。元野球部の頃、部活を終えて帰れば母親が台所で「おかえり」と言ってくれた。何も言わずとも、ごはんのにおいが迎えてくれた。今の生活にはそのぬくもりが欠けている。だからこそ「おかえり」が欲しくなる。声に出すだけでは満たされない、「存在」が欲しいのだと思う。
忙しいのに孤独が勝ってしまう夜
日中は登記の相談、遺言の手続き、会社設立と、次から次へと依頼が舞い込む。それなのに、なぜこんなにも孤独感が強くなるのだろう。おそらく、仕事での対話は“役割”としての自分であって、本当の自分を見てくれる人がいないからだ。忙しさにかまけて、誰かと深くつながることを避けてきたツケかもしれない。事務所に戻って書類を整理しながら、ふと手が止まる。そんな夜ほど、「誰かに見ていてほしかった」と思ってしまう。
「おかえり」がもたらす不思議な安心感
「おかえり」はただの挨拶ではない。存在を認めてもらえる言葉であり、自分がここにいていいんだと思わせてくれるものだ。自分の居場所を感じられる魔法のような一言。その一言の有無で、心の状態が大きく変わることに気づかされる。
他愛ない言葉に込められた魔法
「おかえり」のたった4文字が、なぜこんなにも欲しくなるのか。それは自分がどれだけ疲れているか、どれだけ認められたいと思っているかの裏返しでもある。「おかえり」と言われた瞬間、自分がどんなに不完全でもいいんだと思える。それは、誰かに見守られている安心感、逃げても戻ってこれる場所があるという希望の象徴のようにも感じる。きっと、誰もがどこかでその魔法を求めて生きているのだと思う。
元野球部だったあの頃の「おかえり」
中学、高校と野球部で、毎日泥だらけで帰っていたあの頃。家に着くと、「おかえり」と言ってもらえるのが当たり前だった。疲れて帰った身体を、味噌汁の匂いや風呂の湯気が迎えてくれた。あれは幸せだったのだと、大人になってようやく気づく。今は一人、風呂も沸かしていない日もある。ごはんも買ってきた惣菜。あのときの「おかえり」は、無償の愛情そのものだったのかもしれない。
事務所の明かりが自分の居場所になるまで
いつの間にか、自宅よりも事務所の明かりのほうに安心を感じるようになっていた。誰かの相談に乗っているとき、自分の存在が意味を持っている気がして救われる。だけど、それは「仕事としての自分」にすぎない。本当の自分の居場所はどこにあるのだろうかと、ふと思ってしまう。
同じ空間に人がいても埋まらない心の距離
事務員さんが一人いる。とてもよく働いてくれるし、気も利く。でも、必要以上に踏み込まない距離感がある。それが心地よい時もあれば、逆に寂しく感じるときもある。相手に気を遣わせてはいけないと思って自分から話しかけず、かといって話しかけられることも少ない。同じ空間に誰かがいても、心の孤独感までは埋まらない。そんな距離感に、ふと虚しさを覚える瞬間がある。
仕事はあるけど生活がない
事務所のスケジュールはびっしり。仕事はある。でも、生活がない。何のために働いているのか分からなくなる瞬間がある。仕事の山をこなしても、夜になるとぽっかり穴が開いたように感じるのは、その空白に「誰かの存在」がないからだろう。やるべきことは多いけれど、生きている実感が湧かない。仕事と生活のバランスは、数字では測れない「心の充実」が必要なのかもしれない。
事務員さんの「おつかれさま」が救いになることも
事務員さんが帰り際にかけてくれる「おつかれさまでした」の一言。それだけで心が少しほっとするときがある。言葉の温度は、言い方ひとつで変わる。事務的な挨拶でも、ほんの少しやわらかさがにじんでいれば、それはまるで「おかえり」に似た優しさに変わる。小さな言葉でも、人は救われることがあるのだと思う。